人種や宗教、性別などに対する差別や偏見を無くし、みんなが安心して住める社会にしようとする動きを「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)」、略して「ポリコレ」という。
この社会的正義に反する言動は許されない。
ことし1月、アメリカで有名なコメディアンが映画『バービー』について、「大きなおっぱいのプラスチック人形が元になっている」と笑えないジョークを飛ばして、ポリコレ棒で叩かれた。
同じくアメリカで最近、10代の白人の少女たちのグループがやらかした。
彼女たちが有名な化粧品店で、鏡の前でサンプルを使って顔を黒く塗り、動物の鳴き声を出してクスクス笑う。
近くに母親らしき女性もいたけれど、一緒に笑うだけで、この行動を止めようとしない。
結局、店のスタッフによって、全員追い出された。
その様子がネットにアップされると、すぐに拡散され、この少女たちは「ブラックフェイス(黒塗りメーク)をした!」とバッシングを受ける。
「ブラックフェイス」とは、白人が顔を黒く塗って黒人のように見せることで、19世紀のアメリカで流行した。
しかし、現在では人種差別行為として、激しく非難される。
これは完全なポリコレ違反になるから、特にアメリカでは、社会的な制裁は避けられない。
以前、日本語を学んでいるアメリカ人と話をしている時、ポリコレ感覚に敏感な人を日本では「意識高い系」と呼ぶと話すと、彼はこんなことを言った。
「へえ。アメリカでは、社会的な不公正や差別に敏感な人を“ウォークネス(wokeness)”って言うんだぜ」
*この「ウォークネス」を日本語にするなら、「正義マン」の方が正しいかも。
これは「woke(目覚めた)」を名詞にした造語。
ちなみに、仏教をはじめた「ブッダ」は、古代インドの言葉で「目覚めた人」という意味になる。
ブッダはいいけど、21世紀に目覚めた人の中には、けっこう面倒くさくて、煙たがられる人もいるらしい。
ポリコレの理念はまったく正しい。が、その基準はあいまいで、OK/NGの判断が人によって違うことも多い。
自分の基準で世の中を正すことに快感や使命感を感じて、攻撃的になる人もいるから、最近のアメリカでは、批判的な意味で「ウォークネス」がよく使われるらしい。
彼はこんな一例を挙げた。
中国や韓国、ベトナムなどは、旧暦の正月を祝う習慣がある。
ことしは2月10日から正月がはじまったから、SNSではそのころ、中国語・韓国語・ベトナム語で「あけましておめでとう~」という言葉が飛び交っていた。
東アジアの中では、日本だけが西暦の正月を祝うから、このころになると「ぼっち感」が際立つ。
何年か前の2月ごろ、アメリカの大学に通っていた日本人女性(日系アメリカ人かも)が登校すると、現地の白人の友人から、「ハッピーニューイヤー!」と笑顔であいさつをされた。
彼女は一瞬フリーズしたけど、すぐに旧正月のことだと理解する。
アメリカでは日中韓の区別がつかず、東アジアの文化をひとまとめにして考えている人が多い。
だから、「それは日本の文化じゃないよ〜」と訂正しようか迷ったが、説明を求められると面倒だったので、その場は「ありがとう」と笑顔で返した。
後で、その日本人が SNSでこの出来事を報告すると、「“アメリカあるある”だよね~」といった共感コメントが返ってきた。
それで終わり、と彼女は思ったかもしれない。
この投稿を見た「ウォークネス」の人たちの反応は違った。
「ハッピーニューイヤーと言った人間は、あなたの文化を侮辱したことになる。無知は言い訳にはならない。あなたはその場でしっかり訂正するべきだった」とか「こういう自覚のない差別行為を放置してはダメ。それに、その人は正しい知識を得る機会を逃した」とか、彼女を批判するコメントが寄せられた。
そんな一件を知って、知人のアメリカ人は「ウォークネス」の意識の高さにウンザリした。
自分の正義を絶対視し、「あなたは〜べき」「〜ねばならない」と自分の価値観を押し付ける人間が増えると、息苦しさを感じる。
キレイすぎる社会は住みづらいのだ。
「ウォークネス」の人たちは少数だけど、熱心で声が大きいから目立つし、影響力がある。
彼はそんな最近のアメリカ社会の風潮が嫌いだと言う。
そんな傾向はいまの日本社会にもあるし、過去にもあった。
江戸時代、松平定信が「寛政の改革」をおこなって、不正を許さない「クリーン社会」を実現しようとした。でも、その政策は厳しすぎて、民衆は汚職のあった田沼意次の時代をなつかしく思った。
この歌にその気持が表れている。
「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」
「ウォークネス」が権力者になると、ちょっとした地獄になる予感。
コメントを残す