インドの歴史にあって、日本にはなかったラッキーなこと。
それが、外国に植民地支配された経験で、イギリスに支配されたインドは悲惨な目にあった。
その氷山の一角が飢餓地獄で、インド国内に食料があったにもかかわらず、植民地政府はそれを海外へ輸出した結果、多くの国民が餓死した。
下の人たちの背後には、鎌を振り上げた死神が立っていそう。
くわしい背景についてはこの記事を。
東西ヨーロッパと同じぐらいの広大な面積を持つインドが、なぜ小さな島国に支配されたのか?
その大きな理由に「共食いからの自滅」がある。
軍師として最高にカッコイイのは「戦わずして勝つ」を実践することで、イギリスはインドの植民地化の過程で、そんな方法を採用した。
1795年のきょう3月11日、インドのマラーター王国とニザーム王国が戦い(カルダーの戦い)、マラーター軍が勝利した。
敗れたニザーム王国は多くの領土を奪われ、巨額の賠償金を支払うことになる。
弱体化したニザーム王国は「このままだとマラーター王国に滅ぼされるかも…」と恐怖におびえ、イギリスの支援を受けるため、自らその従属国となった。
イギリスにしてみたら、戦わずして一国を「ゲット」したようなもの。
そのマラーター王国も1817年に、「第三次マラーター戦争」でイギリスと戦って敗れ、領土は没収され、君主のバージー・ラーオ2世は追放された。
こうしてマラーター王国もイギリスの属国となる。
当時の大英帝国の気持ち
マラーター王国とニザーム王国がイギリスの属国になる前、南インドには強大なマイソール王国が存在していて、植民地化をねらうイギリスにとって最大の障害となっていた。
マイソール王国を何とかしたかったイギリスは、マラーター王国とニザーム王国に呼びかけ、マイソール王国に対する共同戦線を形成することに成功する。
両国はマイソール王国を倒すことに夢中で、少し先の未来が全く見えてなかったのだ。
戦争に負けたマイソール王国はイギリス、マラーター王国、ニザーム王国に領土の半分(あるいはそれ以上)を譲渡し、多額の賠償金を支払うことになった。
イギリスは君主のティプー・スルターンに対し、賠償金の支払いを保証するため、二人の息子を人質として差し出すことを要求する。
ティプー・スルターンに「だか断る!」なんて言う選択肢はなく、彼は領土と金だけでなく、最愛の息子もイギリスに奪われた。
イギリスに引き渡される二人の息子
日本にも「共食いからの自滅」の危機が迫っていた時があった。
幕末、戊辰戦争で新政府軍と幕府軍が激突し、全面対決がほぼ避けられなくなった状況で、徳川慶喜が降伏を決意し、江戸城を無血開城した。
もし、この時、両軍が死力を尽くして戦闘をしていたら、江戸の街は廃墟となり、どっちが勝っても日本の弱体化は必至。
そうとなると、イギリスやフランスによって、日本全体ではなくても、九州の一部などを植民地にされていた可能性はとても高い。
江戸城の明け渡しについて、西郷隆盛と話し合った勝海舟は後にこう語っている。
「おれが政権を奉還して、江戸城を引き払うように主張したのは、いわゆる国家主義から割り出したものさ」
「都府(首都)というものは、天下の共有物であって、けっして一個人の私有物ではない」
一方、ニザーム王国やマラーター王国のインド人には「インド」という国家観がなかった。
目先の小さな利益に目がくらみ、同じインド人同士で争い合い、最後にはイギリスに全インドを奪われた。
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