【塩の行進】インド人はどうやってイギリスを追い出したか?

 

中国を旅行した時、ガイドから中国人と日本人の国民性についてこんな話を聞いた。

「中国人は1人なら竜だけど、3人集まると豚になる。日本人は1人なら豚だけど、3人集まると竜になる。」

つまり、中国人は個人としては強いけど、自己主張が強いから集団になるとまとまらず、力を発揮できない。
それに対し、日本人は個人としては弱いけど、協調性があるから集団になるとメチャ強い。

インドのことわざに、「1+1は11になる」(One and One Make Eleven)というのがある。
「友情パワーは無限大!」みたいな感じに、インド人が団結すると奇跡を起こす力がうまれるらしい。
1930年のきょう3月12日、ガンディーがそんなことをした。

 

紙幣に描かれているガンディー

 

「インド独立の父」として知られるガンディーは、日本では歴史教科書に出てくる人で、インド旅行では、買い物をする時によく見る人物だ。
インドでのガンディーへの尊敬っぷりはハンパない。
すべての紙幣に彼が描かれていて、出身地であるグジャラート州の州都はガンディーナガル(ガンジーの町)と命名されたほど。

ガンディーの唱えた「非暴力・不服従」という理念は有名だけど、それに基づいて行われた具体的な行動はあまり知られていない気がする。
1930年3月12日に彼がはじめたイギリスへの抵抗運動、「塩の行進」がまさにその代表例。
人間が行きていくうえで、塩は絶対に欠かすことができない。
古代ローマ時代、塩は貴重品で兵士の給料として支給されていたから、塩(ソルト)は「サラリー」の語源となったのだ。

【塩の日】サラリー、サラダ、サルサの語源は「塩」だった件

 

「塩の行進」をするガンディー

 

植民地時代、インドで塩はイギリス政府だけが作ったり、販売したりすることができた。
それ以外の人たちが塩を作ると、警察に逮捕され、処罰を受けることとなる。
ガンディーは、塩の専売制度があらゆる民衆を苦しめていることに注目した。
塩を求める気持ちは地域や立場、カーストや宗教に関係ないから、塩の専売制度に反対する運動はすべのインド人の共感を得ることができる。

そんなことでガンディーは自分で塩を作るために、グジャラート州から約400km離れた海岸まで歩いて行くことにした。
23日間歩き続ける間に、数千人が加わり、行進の列は3kmに達した。
この「塩の行進」は3月12日にはじまり、ガンディーは4月5日に海岸に到着し、翌日の朝、塩と泥の塊(かたまり)を海水で煮て、違法の塩をつくる。

1930年4月6日の午前8時30分、ガンディーが公然とイギリスの法を破ったことで、何百万人ものインド人が不服従の行為、つまり違法な塩の精製をはじめたという。

When Gandhi broke the British Raj salt laws at 8:30 am on 6 April 1930, it sparked large-scale acts of civil disobedience against the salt laws by millions of Indians.

Salt March

ガンディーは泥と塩の塊を手に持ち、こう言ったという。

「これで、私は大英帝国の土台を揺るがした」

 

「塩の行進」の影響でインド各地でイギリスへの抵抗運動が起こり、ガンディーをはじめ6万人が逮捕された。
しかし、地域や宗教、性別を超えた民衆の心についた火を消すことはできず、インドはイギリスを追い出し、1947年に独立を達成した。

 

女性のリーダーが行なった「塩の行進」

 

ガンディーによる「塩の行進」

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。