きょう3月18日は、1314年にフランス国王フィリップ4世の命令によって、テンプル騎士団の団長が生きたまま焼かれた日。
RIP(Rest in Peace:安らかに眠れ)。
11世紀から、ヨーロッパでは、キリスト教の聖地エルサレムを「奪い返す」ために、十字軍の遠征が何度も実施され、大地が地で染まるほどイスラム教徒と激戦を繰り広げた。
そのころ、エルサレムを防衛したり、そこへ向かうキリスト教の巡礼者を守ったりするために、「騎士修道会」(騎士団)がいくつか組織される。
彼らは修道士であると同時に、戦いの訓練を受けた戦士でもあったから、「戦う修道士」とも呼ばれた。
その中でも、特に有名なのがテンプル騎士団。
しかし、それはキリスト教世界での話で、イスラム教徒にしてみれば、彼らは無慈悲で残酷な殺戮者だった。
テンプル騎士団
聖地エルサレムや巡礼者を守るために、騎士団はイスラム教徒と戦った。
彼らはヨーロッパのキリスト教世界ならではの組織で、日本の歴史とはまったく縁がなかった。
リアル世界では存在しなかったが、日本のアニメやゲームのファンタジー世界なら、高潔で強い戦闘集団として、十字架のデザインのあるコスチュームをまとってよく登場する。
しかし、広く考えると、日本にも騎士団に相当する集団がいたことをご存知だろうか。
テンプル騎士団の紋章
一頭の馬に二人の人間が乗っているのは、1人で騎士と修道士の役割を兼ねていることを象徴している。
英語版ウィキペディアには「Warrior monk」という項目がある。
ウォリアーは戦士、モンクは修道士や修道僧を指す。
そのウォーリアーモンクの具体例として、西洋のテンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団、マルタ騎士団と並んで、日本の僧兵が「a type of Japanese warrior」と紹介されている。
ちなみに、ここには武術をマスターした僧がいる中国の少林寺もある。
平安時代になって治安が乱れると、京都や奈良の大寺院は広大な荘園を守るため、僧が武装することがあった。
そんな僧や仏教僧の姿をした武者を僧兵という。
騎士団の敵はイスラム教徒だったが、僧兵の敵は盗賊や貴族、武士だった。
特に有名で、強大な僧兵を抱えていたのが比叡山延暦寺。
延暦寺の僧兵はしばしば朝廷へ押しかけ、武力をチラつかせながら強引に要求を認めさせようと迫り、天皇や貴族を悩ませていた。
当時、絶大な権力を持っていた白河法皇でさえ、自分の思い通りにならないものとして、賀茂川の流と双六(すごろく)の目、それと山法師(比叡山の僧兵)を挙げたほど。
僧兵の一般的なスタイル
布で頭を隠し、武器として薙刀(なぎなた)を持ち、高い下駄を履いていた。
個人として最も有名な僧兵は、源義経に仕えた武蔵坊弁慶と思われる。
「最強」と言われたテンプル騎士団の最後は突然やってくる。
1307年にフランス王フィリップ4世は、国内にいたテンプル騎士団の会員を一斉に逮捕した。
彼は罪をでっち上げ、テンプル騎士団をおとしいれて解散させ、その巨額の財産を奪おうとしたと言われている。
そして、1314年の3月18日、テンプル騎士団の最後の団長ジャック・ド・モレーが生きたまま焼かれた(3月11日といいう説もある)。
比叡山の僧兵は、1571年9月30日に織田信長の軍と戦い、山を焼かれて無力化された(比叡山焼き討ち)。
比叡山の場合は信長と敵対した結果だから、テンプル騎士団と違って同情の余地はあまりない。
火刑に処されるテンプル騎士団の団員
信長の軍に焼かれる延暦寺
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