広大で数千年の歴史を持つ中国には、日本人の想像を越える建物が存在する。
その一つが「土楼」。
厚くて固い土で外壁をつくったこの巨大な木造建築物には、一度に数百人が暮らすことができる。
あまりにも規格外の建物だったため、1960年代の冷戦時代に、アメリカ軍が衛星(または偵察機)で発見した際、ミサイルの発射施設かと疑ったという話もある。
福建省だけでそんな土楼が数千か、1万以上もあって、いまでは観光名所となっている。
この地域では昔から盗賊集団の襲撃があったから、こんな要塞みたいな住居に一族が住み、イザという時は協力して敵と戦っていたのだ。
そんな土楼のひとつでは、一部が大きく壊れていた。
住民に聞くと、なんと1851年に「太平天国の乱」が発生し、住民が盗賊か軍と戦った際にこの部分が崩壊したという。
その後、この土楼に住む人は減っていき、時代も平和になったから、お金や時間をかけて修理する理由も無くなり、このまま放置しているらしい。
太平天国の乱は清朝時代の中国で、洪秀全(こうしゅうぜん)が起こした大規模な反乱。
彼はキリスト教に改宗し、それをベースとした新宗教(拝上帝教)をつくり、信者を増やして大勢力となり、清政府を打倒するために立ち上がった。
そして1853年のきょう3月19日、 太平天国軍は南京を落とし、そこを「天京」と改めて首都とし、洪秀全は太平天国の王朝をスタートさせた。
彼らは一時期、中国の南半分を支配下に置くほどの勢いを持っていた。
太平天国の指導者・洪秀全(1814-1864年)
日本はこの動乱を知って、最初は太平天国を歓迎した。
というのは、太平天国の軍が「滅満興漢」(満州人を滅ぼし、漢人の国家を建てる)というスローガンを唱えていたから。
17世紀に漢人の明王朝が滅亡し、満州人の建てた清が中国を支配するようになる。
だから、日本人は「滅満興漢」と聞いて、てっきり明王朝の生き残りがいて、異民族である満州人の国(清)を倒すのかと期待したのだ。
それに、太平天国の人たちは、清王朝の支配の象徴である「辮髪(べんぱつ)」を切り落とした。
辮髪は満州人への服従の印だったから、それを否定したということは、漢人として自立したことを示している。
それで当時の日本人は、太平天国が明王朝を復活させているのだとカン違いし、彼らを支持したが、詳しい事情がわかると態度を一変させた。
洪秀全は明朝と関係なく、「私的」な動機で清政府に反旗を翻していたし、彼らはキリスト教徒の集団だった。
江戸時代の日本人にとって、キリスト教徒による反乱は「島原の乱」という悪夢を連想させる。
それに上海に渡った日本人が太平天国の乱について、「邪教で民を惑(まど)わせている」「暴れまわって秩序を乱している」といったネガティブな話を耳にする。
こんなことから、日本人の心は太平天国から離れていった。
一方、西洋列強は違った。
太平天国はキリスト教徒の集団だから、歓迎すべきだという声もあれば、正体のしれない集団で信用できないという声も上がり、とりあえず太平天国に使節団を派遣し、彼らの思想や考え方を知ることにする。
その結果、洪秀全は西洋列強を格下の「朝貢国」とみなしたため、西洋側は失望した。
西洋諸国は太平天国を滅ぼした方が自分たちの利益になると判断し、清政府の味方をすることに決めた。
太平天国にとって、これが致命的な結果を招くこととなる。
イギリスの軍人・ゴードンが率いる「常勝軍」の活躍もあり、1864年に洪秀全は亡くなり、太平天国は崩壊した。
*当時、上海にいた高杉晋作が常勝軍に注目し、帰国後、これをヒントに奇兵隊を組織したという説もある。
約14年にわたるこの内戦で、死者の数は2000万人を超えたと言われる。
土楼もそうだけど、中国は何でもスケールが大きすぎ。
中国文化の日本文化への影響②日本風にアレンジした5つの具体例
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