古代の日本人が新しい教え、仏教に期待したのは「薬効」

 

きょう4月5日は、585年に有力豪族の物部守屋(もののべ の もりや)が敏達(びだつ)天皇に、「仏法(仏教)なんてやめましょー」と言った日だ。
今回は、この時代の日本人が仏教に求めたことについて書いていこう。

 

552年か538年に仏教が日本に公式に伝わると、

「中国など西方の国々はすでに信じている。わが国もこの新しい教えを信じよう。乗るしかない、このビッグウェーブに!」

という人たちと、

「いや、それはダメだ。外国の神を信じたら、日本の神々を怒らせてしまう」

と反対する人たちに分かれる。
仏教を推すグループの筆頭が大臣の蘇我稲目(そがのいなめ)で、反対派の筆頭が大連の物部尾興(もののべのおこし)。

この対立は、彼らの息子である蘇我馬子と物部守屋にまで引き継がれた。
ある日、馬子は病気になり、天皇に仏を祀る許可をもらって、仏法(仏教)による治癒を祈願しはじめた。
それを苦々しくながめる物部守屋。
しかし、馬子が祈りはじめるとすぐに疫病が広がったため、守屋は危機ではなく、おそらく嬉々として敏達天皇に、

「だーかーらー、言ったじゃないですか。この厄災が起きたのは、外国の宗教を信仰したせいですよ。仏教なんてすぐに廃止しましょう!」

ということを、ものすごく丁寧に述べた。
こんな現実が起きた以上、天皇も「そうしなさい」と命じるしかない。
すぐに守屋は寺を破壊して仏像を川に投げ捨て、馬子ら仏教信者を「テメーらのせいでこうなったんだよ、クソがっ!」と激しくののしった(想像)。
それだけでなく、守屋は三人の仏教徒の女性を全裸にし、ムチで尻を打つというメチャクチャなことをした。

こうして仏教の信仰が止められて、疫病が消え去ったのなら、守屋の完全勝利! だったのだけど、そうなるわけがない。
疫病はなくなるどころか、敏達天皇も守屋まで病気になってしまった。
こうなると今度は馬子のターンで、人々は「仏像を焼いた罪に違いない」とウワサする。

 

用明天皇
在位期間は585年〜587年とわずか2年。

 

敏達天皇が亡くなると、次に用明天皇が即位した。
用明天皇は仏教オシの蘇我稲目の孫にあたり、敏達天皇と違って仏法を尊重する。
用明天皇によって、日本では仏教が(実質的に)公式に認められ、天皇も病気になると「朕、三宝に帰らむと思ふ」と仏教に帰依した。
*三宝は、仏(ブッダ)とその教えである法(ダルマ)、それと僧(サンガ)の3つのこと。
これ以降、一直線ではないが日本に仏教が定着し、盛んになっていく。

ということで、日本で仏教が信仰される重要な要素にあったのが「病気」の存在で、これがいわばリトマス試験紙になる。
古代の日本人が宗教に期待したのは、病気に“効く”かどうか、つまり薬効だったのだ。

 

 

日本人の宗教観(神道・仏教)

仏教とキリスト教の違い:アメリカ人が地蔵の話に怒ったワケ

外国人には不思議な日本人の信仰「宗教はファッションだ」

アメリカ人と京都旅行 ~日本人とキリスト教徒の宗教観の違い~ 1~11

日本仏教とプロテスタントの共通点 親鸞とルターの結婚解禁

【日本の夜明け】仏教僧の政治介入を終わらせた織田信長

 

コメントを残す

ABOUTこの記事をかいた人

今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。