2017年はドイツにとって記念すべき年。
なぜなら、ルターが宗教改革を始めたときからちょうど500周年になるから。
それを記念して、ドイツではいろいろなイベントを開かれるという。
ドイツに行く予定があって世界史が好きな人は、チェックしてみましょう。
下の文はドイツ大使館のホームページから。
2017年10月31日、マルティン・ルターの95ヶ条の論題の提示から500年を数えます。宗教改革記念イヤーに向け、2008年、「ルターの10年」が厳粛に幕を開けました。
でも宗教改革のときには、新教(プロテスタント)とそれまであったキリスト教(旧教・カトリック)と激しく対立することになった。
そしてヨーロッパ中で争いがおきて、多くの人がその犠牲になっている。
宗教改革の運動が盛んになった背景には、中国で生まれた紙のつくり方がヨーロッパで広まっていたことがある。
製紙法の伝播(西伝) いつ中国から日本・イスラーム圏・ヨーロッパへ?
日本の歴史でも、新教と旧教が対立したことがある。
鎌倉仏教が誕生したとき、それまでの仏教(旧仏教)と考え方の違いからちょっとした争いも起きていた。
旧仏教
鎌倉仏教に対し、南都北嶺を中心とする宗派・寺院をいう。華厳宗・律宗・法相宗などで革新運動が起こり、戒律が重んじられた。
新仏教(鎌倉仏教)については、中学校でこんな宗派を学んだはず。
浄土宗(法然)・浄土真宗(親鸞)・時宗(一遍)・日蓮宗(日蓮)・臨済宗(栄西)・曹洞宗(道元)
たくさんの日本人がこうした新仏教(鎌倉仏教)を信じるようになっていった。
そんな人びとの動きを見て、旧仏教側も「このままじゃいかん!」ということになり、改革を始める。
それが説明にあった「革新運動」というもの。
このへんのことを知りたい人は、「明恵」というお坊さんを調べてみよう。
明恵は「みょうえ」と読む。
「あきえ」ではない。
ドイツで始まった宗教改革にときにも、同じように旧教(カトリック)の改革運動が起きた。
ヨーロッパでも、多くの人たちが新しいキリスト教(新教)を信じるようになっていく。
「このままじゃいかん!」と、カトリック教会も改革運動を始める。
これを「対抗宗教改革」という。
この対抗宗教改革のなかで、海外にカトリックを広めることを目的としてイエズス会が結成された。
そしてこのイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが日本に来て、キリスト教(カトリック)を布教することになった。
ちなみに、上智大学はこのイエズス会によってつくられている。
マラッカでたいへん信心深い、信仰のあついポルトガル人の商人から最近発見された幾つかの大きな島の話を聞きました。その国は日本と呼ばれていて、イエス・キリストの教えを広めるうえでインドより発展しそうなところです。
なぜかというと、日本人はどの国民より知識に飢えているからです
「ザビエルの見た日本 (講談社学術文庫)」
ザビエルはマレーシアのマラッカで、日本人のヤジロウと運命的な出会いをはたす。
そしてヤジロウの助けを受けながら、日本でキリスト教を伝えていた。
日本では旧教に対して新教が生まれて対立はうまれたけど、戦争までにはならなかった。
でもヨーロッパの歴史は違う。
この旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)の争いはとても激しくおこなわれていた。
高校で世界史では、フランスで起きた「サンバルテルミの虐殺」と「ユグノー戦争」を必ず習うはず。
ユグノーとはフランスの新教徒(プロテスタント)のこと。
ユグノー戦争
1562~98
フランスでおこった宗教戦争。新旧両派の対立と、貴族の権力闘争の二つの側面を有していた。(世界史用語集 山川出版)
サンバルテルミの虐殺のばあいは、事件が起きた背景がひどい。
フランスではユグノー戦争のように、新教徒と旧教徒の争いが絶えなくて多くの人たちが苦しんでいた。
そこで「新教と旧教を仲良くさせよう」と融和をはかって、新教徒のアンリと旧教徒のマルグリットを結婚させることになった。
アンリ
在位中から現代に至るまでフランス国民の間で人気の高い王の一人で、大アンリ(Henri le Grand)、良王アンリ(le bon roi Henri)と呼ばれる。1959年から発行された50フラン紙幣において肖像が採用されていた。
(ウィキペディア)
マルグリット
幼い頃から際立つ美貌と、ギリシャ語、ラテン語などの語学や哲学などにも造詣が深い彼女は、宮廷の華として誰もが憧れる絶世の美女として成長していった。
(ウィキペディア)
この2人の結婚を祝っているときに大虐殺がおきた。
サンバルテルミの虐殺
1572年8月にパリで勃発した、旧教徒による新教徒殺害事件。
新旧両教徒の融和を目的に、ユグノー首領であるブルボン家のアンリ(のちのアンリ4世)と王妹が結婚したが、祝賀に集まったパリの新教徒を旧教徒が多数殺害し、騒乱は地方へと拡大した。
カトリーヌ=ド=メディシスが虐殺を主導したとされ、新旧両教徒の争いは激化した。
「世界史用語集 山川出版)」
「たくさんの新教徒が殺された」と知ったローマ教皇は大喜びした。
そして虐殺を命じたフランス国王に感謝の手紙を送っている。
フランスで起きた、かの有名なサン・バルテルミーの虐殺事件で、一万人のプロテスタントが殺された。教皇グレゴリウス十三世は、虐殺を命じたフランス国王シャルル九世にこんな手紙を送った。
「神のお力を借りて、忌まわき異端者の手から人々を救ってくださったことに感謝いまします」
「キリスト教封印の世界史 (ヘレン・エラーブ)」
「異端の罪は異教の罪より重い」といわれるけど、ローマ教皇が虐殺を喜んでいたというのは今からは考えられない。
ドイツでおきた新教と旧教の争いで、もっとも大きな被害を出したのは三十年戦争だ。
三十年戦争では、ドイツ国内のプロテスタントとカトリックの戦いだけでは終わらなかった。
ドイツのプロテスタントには、同じプロテスタントのデンマークやスウェーデンが援軍として戦争に参加する。
そしてカトリックには、同じカトリックの国であるスペインが援軍として戦争に参加した。
こうして複数の国が軍隊を率いてドイツに入ってきて、ドイツ全土で戦争をくり広げていた。
三十年戦争
1616~48ドイツを戦場とし、旧教を強制されたベーメンの反乱から始まり、神聖ローマ帝国全体の新旧両派諸侯の戦いへと拡大した。
スペインが旧教徒側を援助し、デンマークやスウェーデンが新教側にたって参戦するなど国際戦争に発展し、旧教国フランスが新教徒側にたって参戦した「世界史用語集 (山川出版)」
日本の歴史では、三十年戦争のような国際戦争はない。
第一次世界大戦までは。
あえていえば白村江の戦いかな?
はくそんこう‐の‐たたかい【白村江の戦い】
天智天皇2年(663)白村江での、日本・百済(くだら)連合軍と唐・新羅(しらぎ)連合軍との戦い。日本は、唐・新羅軍に攻略された百済の救援のために軍を進めたが大敗し、百済は滅亡。日本は朝鮮半島進出を断念した。
デジタル大辞泉の解説
白村江の戦いでは、日本は百済に援軍を送っている。
そして唐は新羅に援軍を送っている。
そのことで、「百済・日本」の連合軍と「新羅・唐」の連合軍との戦いになった。
これは先ほどの三十年戦争と似ている。
これも国際戦争の1つと考えることはできるけど、まあこれは日本史の例外ですよ。
島国の日本では、ドイツの三十年戦争のように外国の勢力が日本に入ってきて国際戦争になったことはない。
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