【歴史の違い】王を処刑した英国・一度も革命がなかった日本

 

明治時代に日本へやってきたアメリカ人女性のシドモアは、ヨーロッパの君主と天皇との違いについてこう記した。

欧州の君主や権勢を誇る王族は、日本の統治者・天皇に比較すると成り上がり者にすぎません。皇室は紀元前六六〇年に初代神武天皇が即位して以来とぎれることなき系統を保っています。後代へ下って、現在の天帝の子孫、睦仁(明治天皇)は歴代系図から一二二代目となります

「シドモア日本紀行 (講談社学術文庫)」

 

この後、太平洋戦争などの困難を乗り越えて皇室はつづき、現在の日本には126代目の天皇がいらっしゃる。
ヨーロッパの君主が「成り上がり者にすぎない」かは別として、日本の皇室がヨーロッパの王族よりも長い歴史をもっていることは間違いない。

 

エリザ・シドモア(1856年 – 1928年)

 

6月14日は1645年に、イングランド内戦でネイズビーの戦いがあった日だ。
“ネタバレ”すると、この内戦(清教徒革命)で国王チャールズ1世は敗北し、公開処刑で首をはねられた。これでスチュアート朝は断絶し、英国は共和制の国となる。
しかし、この悲劇はチャールズ1世のごう慢さが原因だったから自業自得、サッカーの母国である英国風に言えば「オウンゴール」だ。

このころのヨーロッパには、

「王の権利は神から与えられたもの! ゆえに、誰も王権を制限することはできないし、国民は国王の行為に反抗することはできないのだ!」

という王権神授説の考え方があった。
チャールズ1世はこれを唱え、国王である自分を絶対の存在とし、英議会の権威を無視して戦争をはじめたり、国民に課税をしたりするなど好き勝手な政治をしていた。

この専制政治に議会が怒り、1642年に彼らを中心とする勢力が王に反旗を翻すと、チャールズ1世は「よかろう。ならば賊どもをまとめて討ってやる!」と応じ(想像)、バトルがはじまる。
この第一次イングランド内戦は、初めはチャールズ1世率いる国王軍が議会軍に対して有利に進めていたが、1645年6月14日のネイズビーの戦いで大敗北をしてしまう。
これがターニングポイントとなり、その後、クロムウェル率いる議会軍が国王軍を撃破&進撃していき、内戦に勝利して王の身柄を拘束した。

その後、チャールズ1世は脱出し、再び内戦をはじめるが、この戦いにも負けてしまう。
彼はまたも捕らえられ、裁判で死刑を言い渡されると、1649年の1月、国王チャールズ1世は国民が見ている前で、オノで首を切断された。
裁判が行われたものの、事実上クロムウェルが王を殺したようなもの。
君主を失った英国は共和政の国となった。
キリスト教の清教徒(ピューリタン)を中心に行われこの革命は、清教徒革命と呼ばれている。

 

チャールズ1世の処刑
処刑人が王の首を掲げ、国民に見せている。

 

いっぽう、日本の歴史ではこんな出来事は一度もおこらず、天皇(皇室)は古代から現在までつづいている。
ネイズビーの戦いがあった6月14日は、889年に高望王(たかもちおう)が天皇から「平」の姓を与えられた日でもある。
ウィキペディアにそう書いてあるけど、「要出典」とあるから、これが正確な日かどうかはわからない。
ただ、ここで重要な情報は、この平 高望(たいら の たかもち)は桓武天皇のひ孫(もしくは孫)にあたる人物ということだ。
彼は上総国(かずさのくに:いまの千葉県のあたり)の統治をまかされて移住すると、任期が終わっても京都には戻らず、そこに住み着いて坂東平氏(ばんどうへいし)を形成することとなった。

939年に朝廷からの独立を宣言し、「新皇」として東国の王を名乗った平 将門(たいら の まさかど)は高望の孫にあたる。(平将門の乱)
平安時代の末期に生まれた平清盛も坂東平氏にルーツを持っている。
つまり、将門も清盛も先祖をたどっていくと、桓武天皇に行き着くのだ。
「平」の姓は、桓武天皇が建設した平安京にちなんで付けられたという説もある。

保元の乱(1156年)と平治の乱(1159年)で、平清盛は後白河天皇(法皇)につき、彼のために戦って大きな信頼を得て大出世し、武士として初めて太政大臣となる。
太政大臣とは最高位の役職で、現在の日本でいえば総理大臣のような地位にあり、日本の政治を動かすことができた。
太政大臣となった清盛が創始者となり、日本初の武家政権(平氏政権)を誕生させる。
平家一族は強大な権力を握り、後に「平家でなければ人間ではない」(平家にあらずんば人にあらず)という有名な死亡フラグが飛び出した。

しかし、平清盛があまりに大きな力を持ちすぎたため、後白河法皇の反感を買うようになる。
清盛としては、「いやいや、いまのアンタがいるのは、保元&平治の乱でオレが命がけで戦ったからだよね?」という思いがあったはず。
2人は激しく対立するようになり、ついに1179年、治承三年の政変がぼっ発すると、清盛は軍を率いて京都に入り、後白河法皇を捕らえて幽閉してしまう。
しかし、彼がしたのはそこまで。
クロムウェルはチャールズ1世を捕らえて処刑したが、清盛は後白河法皇を監視下に置いただけで、危害を加えることはなかった。

これ以降も、源頼朝や足利尊氏など源氏出身の武士が幕府を成立させても、朝廷を滅ぼすことはなかった。
1221年の承久の乱で幕府と天皇の軍が戦い、幕府側が勝利し、武士が天皇と上皇を島流しにすることはあっても、天皇を倒すことはなかった。
英国の歴史には国王を殺害し、王朝を断絶させたことがあったが、日本の歴史ではそんな革命は一度もおこらなかった。大勢の国民の前で、君主の首を切断するという行為は日本にふさわしくない。
平氏のルーツは桓武天皇、源氏のルーツは嵯峨天皇にあるから、両一族には皇族を殺害しようとする意図なんてなかったのかもしれない。

【日本の姓】源氏は“天皇と同じ源”、平氏は“平安京”から

こうして明治時代になり、アメリカ人が日本の歴史を知って、「皇室は紀元前六六〇年に初代神武天皇が即位して以来とぎれることなき系統を保っています」と感心することとなる。

 

 

日本 「目次」

「ヨーロッパ」カテゴリー 目次①

イギリス人が話す英国王の役割/日本の天皇との決定的な違い

イギリス人が日本で注意すること「気軽にハグすんな!」

なんでイギリス人はみかんを「サツマ」と呼ぶの?②薩摩藩と英の「薩英戦争」

 

4 件のコメント

  • > いっぽう、日本の歴史ではこんな出来事は一度もおこらず、天皇(皇室)は古代から現在までつづいている。

    「家」としての天皇家が古代から現在まで途切れず続いていることはその通りですが、臣下によって処刑(暗殺)された天皇は2人います。崇峻天皇と安康天皇です。
    崇峻天皇が暗殺されたことは記紀に明記されており、これを史実として疑う歴史学者はいません。安康天皇の場合は、暗殺されたと日本書紀には明記されていますが、史実性に乏しいとして事実ではないと考える歴史学者も多いようです。その他、亡くなった時の状況がよく分からないが、その死が「暗殺かもしれない」と疑われる天皇が何人かいます。
    なお、これらの事件(クーデター的な政変によるものが多い)は、いずれも天皇家を中心とした貴族政治が政治の実権を握っていた古代に起きたことです。天皇家と貴族から政治権力が奪われ、武家政権(鎌倉幕府)による政治が始まって以降は、今回の記事にもある通り、そのような事件は一度も起きていません。

  • > ついに1179年、治承三年の政変がぼっ発すると、清盛は軍を率いて京都に入り、後白河法皇を捕らえて幽閉してしまう。
    > しかし、彼がしたのはそこまで。
    ・・・
    > 1221年の承久の乱で幕府と天皇の軍が戦い、幕府側が勝利し、武士が天皇と上皇を島流しにすることはあっても、天皇を倒すことはなかった。

    その間、1185年、壇ノ浦の戦いで源氏が平氏を滅ぼしたとき、平氏に擁立されていた幼い安徳天皇が、滅んだ平氏の道連れという形で入水自殺しています。この史実は、実質的には源氏勢力が安徳天皇を殺害したのと同じですよね。
    このように天皇個人が殺害されたことは何度かあったけど、天皇家が断絶せずに現在まで続いてきたのは、早くから政治の実権を手放して武家政権へほぼ全面的に渡してしまい、自身は「日本国統合の象徴としてのみ存続する」という道を早くから選択したからこそだと思います。

  • 崇峻天皇の場合は私的な暗殺で、イギリスのように裁判で死刑を宣告され、公開処刑されたケースと性質が違います。
    特に王朝の断絶がおきていません。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。