岩倉使節団 「日本人として恥ずかしい」と感じたワケ

 

1853年に黒船が現れて、ペリーから「そろそろ起きんかい」と言われ、日本は開国をせまら、幕府は翌年に日米和親条約を結び、約 200年間の長い眠りから目覚めた。
それからおよそ 20年後、岩倉使節団のメンバーだった久米邦武(くめくにたけ)がこんな後悔を書いている。

「実に東洋人としてこれまでのことを振り返り慚愧の念に堪えないほどである。」

慚愧(ざんき)とは、鬼殺隊と死闘をくり広げた鬼ではなく、自分のしたことが間違っていたと認め、心から恥ずかしく思う状態を指す。
久米が東洋人(日本人)として深く反省していることの中には、1861年の7月5日におきた「第一次東禅寺事件」があるはずだ。

 

当時の日本には、西洋人を「野蛮で汚らわしい存在」(夷狄)とみなし、日本から追い出そうとする攘夷派の人たちがいた。
そんな攘夷派の中には「悪即斬」の法則(?)から、問答無用で西洋人に斬りかかるサムライ・テロリスト(浪士)がいて、1861年のこの日、江戸の東禅寺にいたイギリス公使オールコックらが彼らの襲撃をうけた。
結果、数名のイギリス人が負傷し、浪士と警備をしていた日本人の合計5名が亡くなる。
翌 62年には、東禅寺の警備をしていた松本藩士がイギリス兵2人を斬殺し、そのあと自害する第二次東禅寺事件が発生。
西洋人の受難はまだつづく。
さらに1863年には、品川に建設中だったイギリス公使館が、高杉晋作らによって焼打ちされた(英国公使館焼き討ち事件)。

幕末には尊王攘夷派の人たちがいれば、それに反対する勢力もあり、日本人どうしでも対立があった。
1863年の7月5日には京都御所の猿ヶ辻のあたりで、攘夷派だった公家の姉小路公知(あねがこうじ きんとも)が斬り殺される「朔平門外の変」が発生。
天皇に近い高位の人物が殺害されたということで、この暗殺事件は日本社会を揺るがした。

 

岩倉使節団の豪華メンバー
左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通

 

第一次東禅寺事件の 10年後の 1871年、明治政府はアメリカやヨーロッパ諸国に岩倉具視をトップとする岩倉使節団を派遣した。
もうこの時代には「悪即斬」なんて発想は過去のものとなり、伊藤博文や大久保利通らは欧米各国でさまざまな人と会い、友好親善につとめ、日本のイメージを良くしようと努力した。
第一次長州征討の10年後の1871年、明治政府はアメリカやヨーロッパ諸国に岩倉具視をトップとする岩倉使節団を派遣した。

この岩倉使節団にいた久米邦武(くめくにたけ)は、アメリカ人の「おもてなし」に感激する。
アメリカ人は自分のような外国人にも、家族のように親しみをもって接し、ボストンでは出港するときに港まで来て見送ってくれた。
そんな熱烈歓迎をうけ、久米はこう書いている。

実に東洋人としてこれまでのことを振り返り慚愧の念に堪えないほどである。ああ、この文明開化の時を迎えて我が日本国民は長く続いてきた鎖国の夢から醒め、国際友好の風潮に浴することをさしせまった課題として肝に銘じねばならない。

「現代語縮訳 特命全権大使 米欧回覧実記 (角川ソフィア文庫) 久米 邦武 (編集, 著), 大久保 喬樹(翻訳)」

 

10年ほど前の日本では、浪士らによる「異人斬り」がおこなわれていたことは、岩倉使節団の全員が知っていたはずだ。
それにもかかわらず、自分たちはアメリカ人から温かい歓迎をうけたから、恥ずかしさを感じ、心から反省した。
「これからは国際友好の時代だ!」という思いは、使節団のメンバー全員に共通していたはず。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。