7月15日のきょうは「海の日」。
海の恵みに感謝して、海洋国家・日本の繁栄を願おうという日だ。
ちなみに、海に面した国や島国は世界中にあるけれど、国民の祝日として『海の日』があるのは日本だけ。
もともとの由来は、1876年に明治天皇が東北地方に巡幸(じゅんこう:天皇が出かけて各地を巡ること)した際、軍艦ではなく灯台視察船に乗り、7月20日に無事に横浜港へ到着したことにある。
その10年前にデンマーク海軍の軍人、スエンソンが来日した。
今回は、彼が見た幕末の横浜を紹介しよう。
エドゥアルド・スエンソン(1842年 – 1921年)
彼は明治4年にも来日し、日本最初の海底ケーブルを敷設した。
「スヴェンソン式増毛法」は彼と関係ない。
*以下の文章の「」の部分は、『江戸幕末滞在記 (講談社学術文庫)』からの引用。
スエンソンを乗せた船は1866年に上海を出港した後、ひたすら東へ進んでいき、相模湾に入って横浜へ到着した。
日本人はその手前にある観音崎に灯台を設置したが、スエンソンが言うには「夜になっても、まったくの役立たず」だった。
なんでこんなガッカリなことになったのかというと、海岸沿いには大きなかがり火がいくつもあって、海上からは、どれが灯台か見分けがつかなかったからだ。
お金と時間をかけて作ってみたものの、あまり意味は無かったーー。
そんな「ハコモノ行政」の伝統は昔からあるのだ。
スエンソンは幕末の横浜のようすをこう記している。
「海岸からは、町の騒音が消音器にかけられたうなり声になって海面に流れてくる。それが時折、耳をつんざくような軍艦の礼砲の音にかき消される」
むかしの大砲は連射することができなかったから、ドーン! と空包をぶっ放すことで、相手に敵意がないことを示した。
この時代の西洋社会では、軍艦が外国の港に入る際、敬意を表すために空砲を撃つことがお約束。
すると、それを迎える側も返礼として空砲を放つ。
幕末の日本では、この轟音が入国のあいさつと歓迎を意味していて、横浜では毎日のように礼砲のやり取りがあったという。
ちなみに、日本初の礼砲は1853年に浦賀沖にやってきたペリーがぶっ放したもの。
当時の日本人は礼砲の意味が分からず、攻撃開始の合図と恐怖したかも。
幕末、横浜の港にはいつもたくさんの軍艦や商船があったから、それが防壁になって、海岸を襲う嵐から住民を守っていたらしい。
船の上からスエンソンが見た横浜の景色はこんなものだった。
「海から見ると横浜は完全にヨーロッパの町である。小さな庭と花壇に囲まれた美しい住宅の列がこちらの丘から向こうの丘まで続いている」
この美しい住宅の前には広い遊歩道があって、ヨーロッパたちが散歩を楽しんでいた。
こんな海岸通りは「バンド」と呼ばれ、西洋の半植民地状態にされていた上海にもあった。
バンドにはフランス海軍病院があって、「横浜随一の奇妙な建物」だったという。
これは二階建ての大きな四角い建物で、二階には赤く塗られたベランダがあり、建物の両側には美しい形をした石の階段がつけられている。
しかし、その洋館の屋根は日本式建築で、たくさんの瓦でおおわれていた。
江戸時代の職人が手掛けたこの屋根は「優美な曲線で反りかえった屋根が目もくらむような高みまで達すると、棟の先は絡み合った竜の複雑な模様になる」という。
上に日本、下に西洋という構図で、江戸幕府としては日本の威厳を示したかったのかもしれなかったが、この和洋折衷の建物は、西洋人には「ナニコレ」的な強烈なインパクトがあった。
ユーラシア大陸最西端にあるロカ岬にある碑には、「ここに陸終わり海始まる」と書かれている。
そんなヨーロッパの表現を借りると、遊歩道で西洋世界が終わり、日本が始まる。
バンドに沿って美しい西洋住宅が並んでいて、バンドの先には、江戸時代と変わらない日本の漁村があった。
幕末の横浜はそんな和洋折衷、東洋と西洋の風景が広がるハイブリッドな場所だった。
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