「foreign」という英単語を見れば、「“外国の”でしょ?」となると思うのだけど、この言葉には「異質の」という意味もあるのだ。
「foreign object」は外から入ってきた異物のことで、性質が違ってまわりとマッチしないから除去の対象になる。
英語の話はこれで終わりにして、ここからは日本の歴史の話。
幕末の日本で攘夷派の武士たちは、「鎖国」体制を守りつづけ、西洋人を国内に入れるべきではないと考えていた。彼らにとっては、西洋人は夷狄(いてき;異民族に対する差別的な呼び方)で、「foreign object」のように国内から排除すべき存在になる。その筆頭が孝明天皇だ。
1858年に大老の井伊直弼が孝明天皇の許可を得ないで、日米修好通商条約を結んだことで、全国の武士が怒り、幕府への批判が高まっていく。
それが1860年の桜田門外の変の原因となり、井伊直弼が暗殺されたことで幕府の威信は大きく低下した。
そんな事情を背景に、横浜で大事件が起こった。
事件があったころの生麦村
1862年に薩摩藩の島津久光が数百人の家来とともに江戸を出発し、京都へ向かっていた。
その年のきょう9月14日、現在の横浜市を移動中、生麦村のあたりで馬に乗った男女4人のイギリス人と出くわす。
こういう場合、当時の日本のルールでは、イギリス人たちが馬から降り、道を開けなければいけなかったが、彼らは行列の前を横切ってしまった。
薩摩藩士がこの無礼に激怒し、刀を抜いてイギリス人に斬りかかり、1人を殺害し、2人を負傷させた。これが「生麦事件」。
イギリス側からしたら、たとえ無礼があったとしても、刀で女性にまで襲いかかるのはやり過ぎで、とても認めることはできない。
イギリスは薩摩藩に対し、関係者の処罰と賠償金を要求したが、薩摩藩は「だが断る!」とこれを拒否。
すると翌63年に、イギリスの艦隊が鹿児島湾へやって来て、薩摩藩との戦争がはじまった。
この結果、薩摩は西洋列強の力の恐ろしさを理解し、攘夷なんて不可能であることがわかり、その考えを捨ててイギリスに近づいていく。
イギリスもそれを受け入れ、薩英は協力関係を結ぶこととなる。
そして、薩摩藩はイギリスの支援を受けながら、幕府をぶっ倒すために動き出す。
全力で戦って互いの力を知ったことで、敵が友に変わるという、少年マンガでありがちな展開が薩英戦争であった。
エドゥアルド・スエンソン(1842年 – 1921年)
薩英戦争が終わった少し後、1866年にフランス海軍の一員としてスエンソンという軍人が日本へやって来た。
彼とフランス人の一行が将軍・徳川慶喜と謁見した後、幕府の役人に大阪の町を歩きたいとリクエストをする。役人は渋ったが、結局はこれを受け入れ、護衛をつけて一緒に街へくり出すこととなった。
スエンソンはその時の緊迫した様子をこう書いている。
しっかり武器を携えて家を出、兵士を数人連れた役人たちに先導されて出発、日本人はみな深刻な顔をして片手を柄におき、もう一方の手にはさまざまな色をほどこされた提灯をさげていた。
「江戸幕末滞在記 (講談社学術文庫) E. スエンソン」
当時はまだ、攘夷派の武士がたくさんいて、彼らは西洋人を見たら「悪・即・斬」で、問答無用で斬りかかる可能性があった。だから、護衛の武士たちは周囲を警戒し、刀の柄(つか)に手を当て臨戦態勢をとっていたのだ。
明治時代になると、日本人は西洋人を「foreign object」と見なさなくなり、西洋人は護衛なしで街を歩くことができるようになった。
ちなみに、当時の中国や朝鮮では、西洋人を排除すべき「foreign object」と考えていたから、近代化に失敗した。
> 当時の中国や朝鮮では、西洋人を排除すべき「foreign object」と考えていたから、近代化に失敗した。
あの頃の東アジアで日本だけが「開国・近代化」に成功した理由は、薩摩・長州など開国を目指す強力な藩と先見の明がある人材が多数いたことももちろんなのですが。
それ以外の要因として、幕府の権威と政治体制がその直前に著しく失墜していたこと、幕府に代わって「天皇」という担ぐ神輿が存在していたこと、その2点も大きかったんじゃないですかね。
不運なことに、中国・朝鮮のどちらもそれらの条件は有していませんでした。