【日本と中国】歴史の法則や皇帝(天皇)の権威の違い

 

10月6日は、2000年前の西暦23年に中国で皇帝の王莽(おうもう)が殺害され、彼の建てた王朝「新」も滅亡した日。
日本では1342年に、武将の土岐頼遠(ときよりとお)が光厳上皇にとんでもない非礼な行為をした日になる。
ということで今回はこの2つの出来事から、日本と中国の歴史の違いを見ていこう。

 

王莽は前漢の皇帝に仕えていた家来だったにもかかわらず、「俺が中国の頂点に立つ!」という野心を抱き、8年に前漢の皇帝を退位させ、自分が皇帝となった。
これが、中国の歴史で初めて皇帝の座を奪い取った例になる。
しかし、彼には政治・外交のセンスが絶望的になかった。
王莽は、自分の言うことを聞かなかったという理由で高句麗へ攻め込み、トップの騶(すう)を殺害したとされる。そして、高句麗を侮辱するために「下句麗」と改名した。
こんな感じに、王莽は本来ならしなくていい戦いをするし、性格は悪いし、国内では経済政策に失敗したから、国民は疲弊し、不満がたまっていく。
そして、中国史ではよくある反乱が各地で発生し、臣下が裏切って(これも中国史あるある)、首都・長安に反乱軍がなだれ込み、王莽はその混乱の中で殺された。彼の開いた新朝はたった15年でジ・エンド。
次に皇帝となった更始帝(こうしてい)も2年しかもたなかった。

 

王莽(前45年 – 23年)
「莽」の真ん中にある字は大ではなく「犬」。
彼は皇帝や王朝を奪い取ったことで、中国でとても嫌われている。

 

土岐頼遠(ときよりとお)は足利尊氏に仕え、ともに戦ったパワフルな武将で、婆娑羅(ばさら)大名の一人でもあった。
婆娑羅大名は「強いものがエライ」という実力主義的な考え方をしていて、公家や天皇といった高貴な身分を軽んじたり、その権威に反発したりにしていた。
1392年の10月6日、京都にいた頼遠が酔っ払った状態でたまたま光厳上皇の牛車と出くわす。すると、土岐は「院と言うか。犬というか。犬ならば射ておけ」とののしって、なんと上皇の牛車を蹴り倒した。

こんな無礼をされても、天皇や上皇の実力では土岐には勝てなかったから、泣き寝入りをするしかない。
しかし、尊氏の弟・足利直義(ただよし)はこの一件を知って大激怒。すぐに頼遠の捕縛を命じた。
酔いから覚めた頼遠は「やっちまった…」と顔が青ざめたのだろうけど、時すでにおすし。

兄である尊氏を征夷大将軍に任命したのは天皇で、室町幕府の権威は全て皇室に由来している。将軍になれなかったら、足利尊氏はただの実力者で、立場はそこらの大名と変わらず、室町幕府を開くこともできなかった。
天皇から権威を授かったことで、彼は将軍として輝くことができたのだ。
上皇の牛車を蹴飛ばすという行為は、天皇の尊厳を傷つける。
足利家にとって天皇は主君にあたり、その権威を軽んじることは、幕府の正統性を否定することにつながってしまう。
足利直義が土岐頼遠を許せるはずがなかった。
土岐家の存続は認められたが、頼遠は京都の六条河原で首をはねられた。

 

中国の考え方からしたら、足利尊氏は将軍の地位に満足することなく、「俺が頂点に立つ!」という野心から天皇を倒して、自分が新しい天皇になって王朝を始めていたところ。
しかし、日本人の尊氏にはそれができる武力はあっても、彼が家来の一線を越えることはなかった。
これは日本の歴史全体にあてはまる法則で、中国史ではよくあった簒奪(天皇の地位を奪う)は日本では一度もない。
中国皇帝の権威は絶大ではあっても、日本の天皇のような絶対ではなかったから、実力と運さえあれば誰でもなることが可能だった。だから、中国の歴史では、皇帝が国を支配するという政治体制はずっと同じで、皇帝がコロコロと替わった。
一方、日本では誰も天皇の地位には手を触れなかったから、同じ王朝の中で、統治者が何度も替わった。将軍を首相に置き換えたら、このルールは現在の日本にも通じる。

 

 

英国の王・中国の皇帝・日本の天皇の「パワー」の違い

在日モロッコ人が感じた、アラブの国王と日本の天皇の違い

「世界最古の王朝」の歴史で生まれた3人の不幸な天皇

令和の女子高生「めっちゃ天皇」/日本軍兵士「天ちゃん」

中国>朝鮮(韓国)。皇帝は「万歳」、国王は「千歳」を使う

 

コメントを残す

ABOUTこの記事をかいた人

今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。