11月5日は、日本とドイツが戦争開始を“決めた”日になる。21世紀の視点から見ると、終わりへの始まり、破滅へのカウントダウンが始まった日だ。
これから、そんな負の歴史を見ていこう。
1937年の11月5日、ヒトラーが総統官邸に国防相、外相、陸軍総司令官などを集めて秘密会議を開き、これから行う国外進出(された側は侵略)の構想を打ち明けた。(ホスバッハ覚書)
ヒトラーは、当時のドイツの経済は危機的な状況にあり、それを解決するためには東の国々を占領して領土を広めるしかないと考えた。
ドイツの領土をロシアにまで広げてドイツ民族の生存圏を確保し、その地に住んでいるポーランド人やウクライナ人、ロシア人などは殺害するかシベリアへ送り、永久に排除する。(Lebensraum)
ヒトラーは東ヨーロッパを手に入れた後で自給自足体制を構築し、イギリスやフランスと戦争をすることを想定していた。
11月5日の秘密会議で、長年計画の一環として東ヨーロッパに戦争を仕掛けることを明らかにし、それが第二次世界大戦につながったと指摘する歴史家もいる。
Hitler planned to start a general European war, which became the Second World War, as part of a longtime master plan.
2年後の1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、二度目の世界大戦がぼっ発する。
軍事力によって、東方生存圏を手に入れるというヒトラーの侵略的な外交政策や領土拡張主義が、第二次世界大戦が始まった大きな要因だ。
ヒトラーが秘密会議を行ったちょうど4年後、1941年11月5日に、東京で東條英機内閣が御前会議を開き、もしアメリカとの交渉がうまくいかなかった場合、12月初旬に攻撃を仕掛けることが決定された(帝国国策遂行要領)。
こうして、12月8日に真珠湾攻撃とマレー上陸作戦が開始され、太平洋戦争が始まった。
それに至るまでの背景を確認しておこう。
まず、開戦の10年前、1931年に満州(中国東北部)で日本陸軍(関東軍)が中国軍を攻撃して満州事変がぼっ発し、翌1932年に満州国を建国。
満州は、日本にとって原料の供給地や移民先として重要視され、内モンゴルと合わせて「満蒙は日本の生命線」と言われていた。
ヒトラーのような人種差別の意図はなかったが、考え方としてはドイツにとっての東方生存圏に似ている。
この後、1937年に日中戦争が始まって戦いが長期化すると、日本は石油などの資源が無くなっていく。石油がなかったら、戦車や戦闘機はただのでっかい鉄の塊でしかなく、このままでは戦争の継続が不可能になり、日本の負けが確定してしまう。
そこで東南アジアに目をつけ、1941年7月に日本軍がフランス領インドシナへ進出すると、これがアメリカを激怒させてしまった。アメリカは8月、日本に対する石油の輸出を全面的に禁止した。
当時、日本は石油の8割をアメリカから輸入していたから、この経済制裁は日本にとって致命傷になる。
アメリカは日本に、フランス領インドシナと中国からの撤退を要求してきたが、日本としては到底受け入れられない。
それで日米交渉が始まったが、結局は決裂し、帝国国策遂行要領に基づいてアメリカに攻撃を仕掛け、太平洋戦争に突入した。
この後、ドイツと日本は連合国から壊滅的なダメージを受けて、前者は1945年5月、後者は8月15に降伏し、第二次世界大戦は終結。
ホスバッハ覚書と帝国国策遂行要領は両国にとって、終わりの始まり、または死亡フラグとなった。
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