ドイツ人と朝鮮人の“捕虜”が日本を選び、文化を伝えた理由

 

島国の日本には、いろいろなカタチで海外から文化が伝わった。
遣唐使が中国で文化を学び、それを持って帰るという平和的な方法もあれば、不幸な出来事がきっかけで新しい文化が伝わったこともある。
ここでは、捕虜として日本に連れてこられたドイツ人と韓国(朝鮮)人の例を見てみよう。

 

1914年に第一次世界大戦が始まると、イギリスと同盟関係にあった日本は英仏などの連合国側について参戦し、ドイツ、オーストリアなどの同盟国と戦った。
第一次世界大戦は「欧州大戦」と呼ばれるように、日本は主戦場となったヨーロッパから離れていたため、英独などに比べればほぼノーダメージだった。それどころか、軍需品などをバンバン輸出し、大戦景気(または大正バブル)と呼ばれる空前の好景気になり、急に大金持ちになる「成金」が登場する。
料亭の玄関で、客の靴を探す女性が「暗くてお靴が分からないわ」と言うと、「どうだ明るくなっただろう」と百円札を燃やす成金の絵を教科書で見た人も多いはず。

第一次世界大戦で連合国の一員となった日本は、1914年に中国でドイツ軍と戦い、きょう11月7日にドイツ軍が降伏し、青島の戦いが終わった。この後、日本軍はたくさんのドイツ人を日本に連れてきて、各地の収容所に入れる。といっても捕虜の扱いはわりとゆるくて、地元の住民とスポーツや音楽などで交流することもあった。
このとき彼らが日本へ伝えたドイツ文化にバウムクーヘンやハムがある。

 

ドイツで菓子職人をしていて、青島では「菓子・喫茶の店ユーハイム」を経営していたカール・ユーハイムは日本に連れてこられ、広島の収容所に送られた。その後、1919年に物産陳列館で開催されたドイツ人捕虜による作品展示会で、彼は日本初のバウムクーヘンの販売を行った。このとき日本で初めてバウムクーヘンが作られたとされる。ちなみに、この物産陳列館が現在の原爆ドームだ。
翌年1920年に解放されると、ユーハイムは日本に住み続けることを選び、青島にいた妻と子どもを呼び寄せ、横浜で自分の店をオープンした。
ユーハイムの作るお菓子は好評で店は人気だったらしいが、好事魔多し。1923年に関東大震災が発生して店が被害を受けたため、彼は神戸に移動してフェニックスのように復活し、ドイツ洋菓子の店ユーハイムを開く。

また、青島から連れてこられたアウグスト・ローマイヤーは食肉加工の経験があって、収容所では調理を担当していた。そこでさらに技術を磨いて、日本語も学習する。
彼も解放された後、日本で生活することを決め、東京帝国ホテルに就職。そこで作ったハムやソーセージが日本人の客に絶賛され、彼は「イケる!」と手応えを感じたようで、帝国ホテルを辞めて独立した。1925年に銀座でロースハムの直売店とレストランを開くと、皇族が利用するほどの人気店となる。
ロースハムを作ったのもローマイヤーで、これは日本生まれの日本固有のハムとなる。
当時は大正バブルでお金持ちの日本人が多かったから、バウムクーヘンやハムといった新しい食べ物を買う余裕もあったと思われる。

ちなみに、年末のお約束となっているベートーヴェンの『第九』もドイツ人捕虜が初めて演奏し、その後の日本で定着したドイツ文化だ。

 

ドイツのクリスマス・マーケット

 

青島の戦いの約600年前、16世紀の末期に豊臣秀吉が朝鮮出兵を行った。
このとき朝鮮半島から沈当吉という人物が薩摩へ連れてこられ、薩摩藩の保護を受けて薩摩焼を始めた。と一般的に言われているが、15代目になる現在の沈壽官(ちん じゅかん / シム スグァン)さんは、先祖の沈当吉は朝鮮では陶磁器を作ってなく、日本へ来てから陶工になったと話している。というのは、当時の朝鮮では陶磁器を作る人間は「賎民」として扱われ、姓を持っていなかったから。
しかし、沈当吉には姓があった。だから、彼は日本に来てから、陶磁器を作る職人になったという。

しかし、現在の韓国では、沈当吉は朝鮮出兵の際、陶工として連行され、朝鮮の文化を伝えたと考えられている。確かにその可能性もあって、ハッキリしたことはわからない。
どっちにしても、薩摩家が朝鮮出身の沈家を保護し、彼らが薩摩焼を発展させたことは間違いない。長い歴史で日本の陶磁器となった薩摩焼は、1873年のウィーン万国博覧会で高く評価され、国際的に名が知られるようになる。

 

佐賀県の有田焼の祖とされる李参平も、朝鮮出兵の時に捕虜として日本へ連れてこられた人物。彼は朝鮮で陶工をしていたことが分かっている。
李参平は1616年に、有田東部の泉山で白磁鉱(白磁に適した地層)を見つけ、日本で初めて白磁を焼いたと言われる。しかし、それ以前から白磁の生産は実験的に行われていた。
有田焼の祖となった李参平は「金ヶ江三兵衛(かながえさんべえ)」という日本名を名乗り、彼が死ぬと、「神」として陶山神社で祀られた。
有田焼も柿右衛門様式が生まれるなど、日本独自の焼き物として発展していく。

白磁の作り方は中国人が考案して朝鮮に伝え、それが“捕虜”を通して日本に伝わった。
韓国のメディアが李参平を取り上げるときは、彼が日本に先進的な朝鮮文化を伝えたと、自国の優秀性を誇るような内容が一般的だ。
しかし、李参平が日本へ連れてこられたのは20代の半ばだったと考えられていて、実はまだ陶工としての技術や知識はあまりなかった。
もし、彼が日本に行かずに朝鮮に残っていたなら、どうなっていたのか?
残念ながら、李参平が現在のような歴史的な人物になることはなかったという。

朝鮮日報のコラム(2018/06/03)

その名が歴史に残った可能性はほとんどない。寡聞のせいでもあるが、朝鮮の陶工で名を残した人物というのは思い当たらない。(中略)産業を「末業」と見なして権力闘争に没頭し、朝鮮の「李参平」を育てられなかった韓国側のせいというべきだ。

もし陶工が朝鮮に残っていたら

 

韓国人の記者でも、朝鮮の陶工で名を残した人物を知らない。朝鮮には優秀な職人がいても、陶磁器を発展させることはできなかったらしい。
李参平は日本に来て、佐賀藩の保護を受けて素晴らしい陶工となった。
自分の才能や技術を高く評価してくれたから、李参平も沈当吉も母国には戻らず、日本に住むことを選んだのだろう。

 

朝鮮出兵で日本へ連れてこられた人物には、儒学者の姜沆(きょうこう)もいた。
彼は日本で生活していて、母国に戻った後、日本で見聞きしたことを「見羊録(かんようろく)」という書にまとめた。朝鮮出兵をした豊臣秀吉を嫌って、「賊魁(ぞくかい)」と書いている。
姜沆は日本と朝鮮のモノづくりに対する考え方の違いとして、「あらゆる事がらや技術について、必ずある人を表立てて天下一とします」と指摘した。
木を縛ったり、壁を塗ったりするといったことは、姜沆には「つまらない技」に見えたが、日本人は卓越した技を持つ人には「天下一」と敬意を示した。

 

朝鮮の社会では「末業」と見なされ、職人は「賎民」で名字を持っていなかった。しかし、日本ではモノづくりを「末業」とは見なさず、優れた技術を持つ職人はとても尊敬された。李参平は今でも神として祀られている。
同じ朝鮮出兵の捕虜でも、政府で重用されていた姜沆とは違って、職人が帰国を拒否し、日本に残ることを選んだ理由が見えてくる。朝鮮が李参平のような才能のある陶工を育てられなかった原因も。
ユーハイムやローマイヤーがドイツに帰らなかったのも、「天下一」という言葉はなくても、職人を尊重する文化が日本にあったからだろう。
中国風に言えば、「士は己を知る者の為に死す」(立派な人間は、自分の本当の価値を知って、それに応じた待遇をしてくれる人のためなら、命をなげうってでも尽くす)だ。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。