きのう1月10日は「明太子の日」だった。
辛子明太子を初めて作った博多のメーカー『ふくや』が、1949年のこの日に初めて明太子を販売をしたことにちなんで、この記念日が爆誕したらしい。
知人のドイツ人は、日本に住んでいたころにいろいろな料理にチャレンジし、「明太子パスタ」がお気に入りの一つになった。
明太子おにぎりを好きなロシア人もいるし、いまでは日本の食文化において、明太子は必須アイテムになっている。
鮭の卵で作られ、海鮮丼や寿司に欠かせない具材の「イクラ」の由来はロシア語だ。
では、スケトウダラの卵から作られる明太子の語源はご存知だろうか?
朝鮮語でスケトウダラを「ミョンテ(明太)」と呼んでいて、その「卵(子)」という意味から「明太子」という名前がつけられた。
ただし、現代の朝鮮語ではタラコを「明卵」(ミョンラン)と呼ぶから、明太子は日本独自の表現になっている。
朝鮮半島では昔から、スケトウダラの卵に唐辛子で味を付けた食べ物があったらしい。
『ふくや』の創業者・川原 俊夫は日本統治時代の釜山で生まれ、子どものころに明太子を食べていた。
河原が福岡で食品店の「ふくや」を開いたとき、目玉商品が欲しいと考え、釜山で食べていた「韓国風に味つけされたたらこ」を思い出す。
それを日本人の口に合うように工夫し、鰹節や砂糖を加えたオリジナル商品の開発に成功する。
河原はそれを「明太子」と名付け、昭和24年1月10日に店で売り出した。
『ふくや』のHP:ふくや創業者の想いから生まれた明太子
明太子が人気になると、ほかの会社も同じような物を作って売り出すようになる。
それで、川原は「はやく特許を取った方がいい」とアドバイスされたが、多くのメーカーがさまざまな味の明太子を提供した方がお客さんのためになると考え、それを拒否する。
それどころか、同業者へ明太子の製造方法を教えるという神対応をした。
川原が商標登録や製造法特許を見送ったことから、他のメーカーが次々と参入し、福岡は明太子の生地と同時に聖地となる。
日本人の得意技は魔改造。
鯉のぼりやひな祭りのように、中国から伝わったものに独自のアレンジを加え、新しい文化を生み出すことがよくある。
明太子も、粉唐辛子が使われているところに、朝鮮半島とのつながりを感じさせる。
でも、これはコピーではなく、日本人に向けに改良されて生まれた独自商品だ。
現在の韓国では、伝統的な明卵漬(唐辛子やニンニクをまぶした塩漬けタラコ)よりも、日本の明太子のほうが有名で、国内で普及しているらしい。
これも、河原が明太子の作り方を教え、「みんなのもの」にしたおかげだ。
韓国の発想だったら、きっと特許を取って利益を独占している。
もちろん、それは悪いことではなく、現代では世界の常識でむしろしなくてはいけない。
ただ、河原の日本人的な精神も大切にしたい。
日本人は古代から新しい文物を習得して自分のものにすることに世界のどの民族よりも心から取り組んだと思います。朝鮮では賤民として迫害され、生計を立てず飢え死にしていた陶工たちが壬辰倭乱(文禄·慶長の役)の時に日本に渡り、日本の陶磁器工業を世界最高水準に引き上げる主役になったことが、朝鮮と日本を最も克明に対比して見せてくれたと思います。
地方の様々な大名が競い合う構図だったので、新しい知識や技術を優遇した雰囲気が作られたようです。壬辰倭乱が起こる前、対馬の住民が朝鮮に銃2本をプレゼントし、銃製造技術を教えようとしましたが、朝鮮政府では全く無関心でした。その結果、豊臣秀吉軍は文禄·慶長の役の開戦から20日余りでソウルを陥落させました。事実上、無抵抗状態で進軍したのです。
>地方の様々な大名が競い合う構図だったので、新しい知識や技術を優遇した雰囲気が作られたようです。
これは韓国人の歴史学者(?)も指摘していました。
朝鮮は中央集権制で、地方に知事を派遣して全国を統治していた。
だから、わりと平和で安定し、朝鮮時代は長く続いた反面、競い合いがなかったから産業は発展しなかった。
現代では「六本木クラス」みたいに、日本が韓国ドラマを参考にするケースもあります。
相手の良いところを見て、良い物を生み出すことは重要です。
共感します。
韓国が日本に対する誤解を消し、正しく日本を認識しなければならないでしょう。 韓国人が思うように、日本と日本人は未開でもなく、残忍でも悪毒でもありません。 このような誤解を取り除くのは韓国では非常に難しいです。
日本を正しく知る人たちが力を得てこそ、韓日関係が発展するでしょう。
ユン政権が登場してから、そんな声が韓国で増えたように思います。
でも、今年の総選挙の結果で、大き変わりますね。