「われわれはアメリカ帝国主義の傀儡(かいらい)、李承晩政権から韓国人民を解放する」
1950年の6月25日に平壌放送がそう宣言すると、北朝鮮軍がとつぜん韓国に攻め込んで朝鮮戦争がはじまった。
このとき韓国は気が緩んでいて、首都ソウルにいた市民は「38度線で戦闘がまた始まったようだが、きっと大したことはない」などと言っていた。
しかし、現実はまったく違って、不意をつかれた韓国は一気に攻め込まれ、政府はソウルを放棄して水源へ移った。
米軍を主体とする国連軍が参戦しても北朝鮮軍の勢いを止めることはできず、韓国側は敗退と撤退を繰り返し、滅亡寸前にまで追い込まれる。韓国政府は日本に対して、山口県に亡命政府を設置したいから、そのための準備をしてほしいという要請までしていた。
しかし、9月15日に国連軍が仁川上陸作戦を決行すると、これが成功し、戦況をひっくり返す。すると今度は韓国のターン。国連軍は北朝鮮の軍を撃破し、国境の38度線を越えて北朝鮮内へ攻め込む。韓国側に「南北統一」の可能性が見えたころ、今度は中国軍が北朝鮮を支援するために参戦し、国連軍を押し返した。
その後、膠着(こうちゃく)状態となり、1953年7月に停戦協定が結ばれた。が、戦争は今も終わってはいない。
朝鮮戦争では、ソウルを奪い返した仁川上陸作戦が決定的なターニング・ポイントとなる。もし、これが失敗していたら、きっと今ごろ韓国は地球上に存在していなかった。
仁川に上陸する国連軍の部隊
むかし韓国を旅行したとき、2024年の今なら、60代になっている男性の日本語ガイドにお世話になった。彼は朝鮮戦争について、学校で受けた教育やメディアの報道からこんな認識を持っていた。
「日本の植民地から解放されたと思ったら、あの惨事が始まり、韓国も北朝鮮もあまりにも多くの人が死んで、国土は荒れ果てて社会は壊滅した。アメリカも中国も社会に大きなダメージを受けた。しかし、日本だけは笑っていた。
日本は軍事物資を生産し、アメリカに売って大もうけしたことで、戦後復興を成し遂げて世界的な経済大国になることができた。朝鮮戦争の唯一の勝者が日本だ」
当時の日本が国連軍の「後方基地」となって戦いをサポートし、朝鮮特需と呼ばれる好景気を迎えたことは事実。しかし、それは表面的なもので、「朝鮮戦争は日本の復興に必ずしもプラスであったとは言えず、日本の発展には地域の安定に基づく自由貿易が不可欠であることを考え合わせるならば、むしろ阻害要因でさえあった」(朝鮮特需)という指摘もある。
それに、日本が経済成長を迎えたのはこれではなく、1954年の神武景気からだ。
韓国ではそんな見方は例外か皆無で、一般的には、破綻寸前だった日本経済があの戦争でよみがえったと考えられている。
ガイドもそんな考えを持っていたけれど、日本の側から歴史を学ぶと「大きな見落とし」があったことに気づいたという。あの仁川上陸作戦は、日本の協力や犠牲がなければ不可能だった。
まず、日本を拠点にして作戦に必要な大量の兵士や武器・弾薬などが集められ、そこから艦船が出港したため、仁川上陸作戦は日本から始まったことになる。
日本人は準備をするだけでなく、実質的に戦闘に参加し、死亡した人も多かった。
たとえば、朝鮮戦争中の1950年のきょう11月15日、米軍の大型曳船636号が機雷に触れて沈没し、日本人の船員22名が死亡した。朝鮮半島の地形をよく知っていた日本人は米軍に重用され、仁川上陸作戦でも活躍した。
実際、この作戦に参加した元海兵隊員は、
「彼ら(日本人)は敵から攻撃を受けながら、ゲートを開き、荷下ろしを必死で担いました。我々は協力し合い、作戦を成功させたのです」
と語っている。
日本人の働きなしでは、仁川上陸作戦の成功は困難だったと言われる。朝鮮戦争で国連軍に協力した日本人は1万人近くいて、50名または100名以上が命を失った(正確な数は不明)。
日本語ガイドは朝鮮戦争で、日本が大きな役割を果たしていたことをまったく知らなかった。日本の資料で歴史を学んだことで、実は日本も「参戦」していて、多くの犠牲者を出したことを知って、目からウロコが落ちる。
彼の中では衝撃的な事実で、韓国に対する見方まで変わった。韓国の教育や報道では、戦後に日本から受けた支援などは隠され、日本を必要以上に「悪役」として描いていることに気がついた。
朝鮮戦争で、韓国の自由と独立を守るために死んだ日本人もいるーー。
そんな歴史を知って、日本に対する見方がガラリと変わって、ガイドの心の中で日本に感謝の気持ちが湧いてきたと言う。
(しかし、歴史を全体的に見ると、日本は過去の蛮行を認めていないという非難のほうが大きいらしい。)
仁川上陸作戦が朝鮮戦争におけるターニング・ポイントになったように、この中で日本の支援があったことは、ガイドの中で大きな転換点となった。
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