【日韓の差】朱子学だけの朝鮮と、実学重視の江戸日本 

 

日本と韓国の考え方の違いといえば、なんといっても儒教ですね。
1392年8月から1897年(または1910年)の約500年の間つづいた朝鮮時代、仏教はキックアウト(排斥)され、儒教が国教の地位にあって全国に大きな影響を与えていた。
日本にこんな時代は無い。
そんな儒教について、歴史家で思想家の津田 左右吉(つだ そうきち:明治6年 – 昭和36年)がこう指摘する。

政治のおしえ道徳のおしえとしての儒教が、権力者や知識人の思想のうえ知識のうえでは、長いあいだ大なる権威をもっていたにかかわらず、その力によって支那の政治と社会とが少しもよくならず、支那の民衆が少しも幸福にならなかった

「支那思想と日本」

*支那は中国のこと。
現在、この言葉は中国への侮辱語や差別語になるからNG。

 

津田左右吉

 

「儒教」といってもいろんな種類があるが、津田がここで言っているのは主に朱子学のことだろう。
12世紀に中国の朱熹(しゅき)」が唱えた朱子学では、君主と臣下の関係は絶対的で、下の身分の人間が上の人間に逆らってはいけないなどと上下関係をとても大切にする。
そんな朱子学はかなり複雑で深淵で高尚で、机上の空論的な、現実から遊離した内容に傾きがちだ。

朝鮮時代を代表する儒学者に李 滉(イ・ファン:1502年 – 1571年)がいる。
李退渓(イ・テゲ)という名でも知られる彼は朱熹の学説を整理して、こんなムズカシイことをおっしゃる。

四端七情と理気との関係をめぐる奇大升との長年にわたる朝鮮儒学史上著名な論争でも、論理的整合性を重視する奇大升に対して、人間のあるべき道徳的な姿を求めて、理気の互発説(四端は理の発、七情は気の発)を主張して、さらに理自体の動静(運動性)を明言した。

李 滉

何を言いたいのか、理解する必要はない。

 

1000ウォン札の李退渓(イ・テゲ)

 

朝鮮時代、政府は儒教の中でも朱子学だけを正統な学問(官学)とし、これを学ぶことを全国的に奨励した。
この朱子学の内容を「科挙」といういわば国家公務員試験の問題にして、この試験(科挙)ですぐれた成績を収めた者は朱子学を深く習得したとみなされ、「両班(ヤンバン)」という官僚になって国を動かしていた。
そんなことで朝鮮王朝時代、朱子学は特に発展することとなる。

日本では江戸時代の1790年に、江戸の昌平坂学問所で教えることのできる正当な学問は朱子学だけになり、それ以外の学問は禁じられた。
朱子学を官学にした理由は、これによって幕府の権威を高めるため。
朝鮮はこの「寛政異学の禁」が全土に適用されたようなものだ。

朝鮮時代の朱子学は内容がめっちゃ複雑で、現実世界との接点も薄く、「もはやコトバ遊びでは?」というものだった。
それは、「四端七情と理気との関係をめぐる奇大升との~」という文を読めば伝わると思う。
そんな高尚なリクツを語ることで、権力者や知識者は大いなる権威をもつことができたが、その力によって朝鮮の政治と社会は少しもよくならず、朝鮮の民衆が少しも幸福にならなかったという状態を生む。

朱子学の解釈をめぐり、両班が李退渓の学説を支持する人の多い「東人」と、それに反対する「西人」とに二分して対立し、権力を握るために争い合って国政を誤らせることもあった。
空想的な理論をこねくり回してしまして、野蛮な人間の満州族が建てた清(中国)は認められない!と言って反抗したら、清軍に国土を蹂躙され、朝鮮国王が清の皇帝に土下座謝罪をさせられたこともある。
大清皇帝功徳碑

 

朝鮮の朱子学は大義や名分にこだわりすぎて、社会の現実を無視するところが大きい。
そんな空想的な朱子学のあり方を批判して、もっと国民の生活に注目し、具体的に役立つ学問をしようと主張する人も出てきた。
たとえば学者の朴趾源(パク・ジウォン:1737‐1805 )。
中国(明)に行って、北京を見て回ったパクは蛮夷(野蛮人)と思っていた清が、実は朝鮮よりもずっと発達していたことに驚いて、清をモデルに朝鮮も国民生活のレベルを向上させるべきだと考えた。
実際、パクの時代、鍾路(チョンノ)や東大門には大きな市場が登場するなど商業が盛んになる。
パクは清に学んで技術を取り入れて、商工業を発展させたり外国と貿易することが重要と考え、朱子学のムズカシイ理屈をこねくり回している学者を批判したと、韓国の中学生の歴史教科書にある。

商工業を発展させなければならないとしていた重商主義派実学者たちは商工業を蔑視するそれまでの誤った風潮を批判した。商業や手工業に従事することが少しも恥ずかしいことではないことを何度も強調した。そして、両班も商業に従事させないければならないと主張した。

「躍動する韓国の歴史 (明石書店)」

 

パクの思想を受け継いだ実学者の朴 斉家(パク・チェガ:1750年 – 1815年)も商工業を発達させるために、清との通商をより積極的に行うことや、節約より消費を盛んにして生産を促すことが重要と訴えた。
だがしかし、おエライ学者さんの壁は厚くて高かった。
高校生の歴史教科書ではパクらの実学の意義を認めつつも、これで韓国社会を大きく変えることはできなかったとある。

しかし、実額はおよそ政治的実権のない没落知識人の改革論であったので、当時の国家政策に反映することはなかった。

「韓国の歴史 (明石書店)」

 

両班中心の身分制度を否定した朴趾源(パク・ジウォン)は才能を重視して、身分に関係なく、優れた技術や芸能のある人間に官職を与えるべき、どんな人間にも学問を受ける機会を与えてそのなかで優秀な人間を選んで役人すべきと主張した。
でも朱子学者どもが、身分制度を破壊するような改革を受け入れるワケことはない。
これでは自分たちを否定することになる。

 

「大いなる権威」を重視してガンコに朱子学を学び続けていた朝鮮では、社会は停滞し、国民がハッピーになることもあまりなかった。
対照的に江戸時代の日本は現実に役立つ学問を重視した結果、朝鮮とは庶民のクオリティーライフ(質の高い生活)で差がついていく。
「読み・書き・そろばん」をマスターした上で農業、医療、経営などの実学を学んでいたのは、朝鮮ではほぼ見られなかった光景だ。
蘭学も実学のひとつ。
徳川吉宗が西洋書の輸入を解禁したことで、長崎を中心に蘭学ブームが起こり、ヨーロッパの自然科学の知識が日本でも広がっていく。
江戸時代の日本がほしかったのは西洋の具体的に役立つ知識や技術で、思想は「イラネ」って感じだったから。
日本人は特に医学を重視して西洋と中国の医学書を比較し、西洋の情報のほうが正しいと分かると、中国医学は置いといて、西洋医学を吸収しようとした。
前野良沢と杉田玄白が西洋書を翻訳して、1774年に世に出した『解体新書』は日本の医療を大きく変えた。
町民学者

朝鮮が無視した実学を日本は積極的に取り入れて、さらに発達させたことで、国民生活は豊かになり社会も発達していく。
そして幕末になるころには、日本と朝鮮にはもう追いつかないほどの差が広がっていた。
これが韓国にとっては悪夢の、日本統治につながっていく。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。