明治から現在まで、東京は日本の首都であり続けていると、思う人もいるかもしれないが、実はイレギュラーな時期があった。
1894(明治27)年に日清戦争が始まると、猛スピードで仮設の国会議事堂(広島臨時仮議事堂)が建てられ、明治天皇や首相、各大臣も広島入りして帝国議会が開かれた。首都機能が広島市に移り、東京は政治的にはカラッポとなる。
日本の歴史で、国会が東京以外で開かれたのはこの1回しかない(日本の首都)。
さて、ここからの話は台湾だ。
以前、1970年代に教育を受けた台湾人と話をしていた時、彼女から、学校で台湾の首都を「南京」と学んだと聞いた。でも、最近会った20代の台湾人は学校で首都を「台北」と習ったと言う。
こうなると日本人としては、「おい台湾、おまえの首都はどっちなんだい?」と言いたくなる。
それを説明するには、台湾と中国の複雑を関係を整理しておかないといけない。
1911年に辛亥革命が起きて清王朝が滅亡すると、中国では中華民国が樹立した。と思ったら、ゴタゴタが起きて(中華民国の歴史で確認)、蒋介石をトップとする国民党(中華民国)と、毛沢東をリーダーとする共産党が争う国共内戦がぼっ発した。
国民党はこの殴り合いに負け、中国大陸から、九州ほどの大きさの台湾へ逃げ込む。
現在の中国は台湾を自国の領土と主張し、日本やアメリカ、国連もそれに同意して北京の中国政府だけを承認している。だから、外交上は台湾を「国」と認めてやり取りをすることはない。しかし、台湾には中国とは別の憲法や議会があり、日本やアメリカなどと積極的な文化交流が行われている。
「一つの中国」の立場を堅持する中国としてはその動きが面白くなく、また「中華民国」という表現も嫌っている。
1949年のきょう12月7日、国共内戦で敗北した蒋介石が中華民国の首都機能を台北に移動した。ただし、これは日清戦争時の広島のような「戦時首都」や「臨時首都」で、蒋介石はいつか共産党を倒して再び中国を手に入れ、本土に“凱旋(がいせん)”することを考えていた。
しかし、そんな日がくることはなく、台湾は現在にいたる。
先ほどの台湾人が学校で首都を「南京」と学んだ1970年代は、台北は一時的な首都で、本来の首都をそれ以前にあった南京と考えていた時代だ。
しかし、「中国に軍事侵攻して統一する」ということは現実離れしていて、1990年代に台湾の民主化が実現すると認識が大きく変わり、台北が“臨時”ではなく、正式な“首都”とする見方が一般的となる。
2016年に馬英九元総統は中華民国の首都について、「1949年より前の首都は南京だが、今は台北だ」と明言した(中華民国の首都)。
ということで「おい台湾、おまえの“首都”はどっちなんだい?」という質問の答えは、「以前は南京だったけど、今は台北だい」になる。
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