日本は“鎖国”を決めたのに、オランダだけは認めた理由

 

韓国語で割り勘のことを「トチペイ(더치페이)」という。
これは「Dutch pay(ダッチペイ:オランダ式の支払い)」というコングリッシュ(韓国製英語)で、英語の「Dutch treat」が由来になっているらしい。
ただ、「Dutch treat」という英語には、オランダ人に対して侮辱的なニュアンスがあるから、あまり良い言葉ではない。
知人のイギリス人やドイツ人などに聞くと、ヨーロッパではオランダ人に対するネガティブな印象として「お金にうるさい」とか「ケチ」というものがある。そんなイメージが韓国にまで伝わったのだろう。
しかし、これは良く言えば、オランダ人はムダなことにお金を使わず、合理的な考え方をしているということになる。日本人の価値観に近いと思う。

 

さて、本日12月11日は江戸時代の闇歴史が発生した日。
1637年のこの日、長崎の島原でキリスト教徒(カトリック)や農民らが江戸幕府に対して大規模な反乱を起こす。総大将は、熱心なキリスト教徒だった天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)という少年だ。
この島原の乱(島原・天草一揆)は翌年の4月まで続き、幕府側で8000人以上の死傷者を出し、一揆軍側では3万7000人が全滅したとされる(異説あり)。
騒動の原因は島原藩主である松倉 勝家(かついえ)の悪政にある。
このバカ殿は、民衆に対しては生活ができなくなるほど厳しく年貢を取り立てたり、改宗を拒否したキリシタンには拷問し処刑を行ったりして、領民の沸点を高めていってついに爆発させてしまった。

反乱を起こさせるほど酷い政治をしていた勝家に対し、幕府は激怒して処刑を言い渡す。それも、武士の名誉である切腹は許されず、ただの罪人として斬首刑となった。
約270年の江戸時代の中で、大名の身分で首をはねられて処刑されたのは勝家だけ。
大名が圧政を行い、領民を苦しめたらどうなるかの実例を示したことは、その後の日本の民衆にとっては良いことだ。
江戸時代に起きた大規模な内戦はこれで最後になり、次は徳川幕府が崩壊した幕末の1868年に起きた戊辰戦争になる。といっても、戊辰戦争の犠牲者数は旧幕府軍と新政府軍を合わせても約8000人だから、島原の乱には遠く及ばない。

 

島原の乱の後、幕府はキリスト教を治安の悪化要因として強く警戒するようになり、ポルトガルとの交易を廃止して船の来航を禁止し、さらに布教を行うポルトガル人を国外に追放した。
幕府は国内のキリスト教徒を根絶するために、寺請制度をつくって住民を地元のお寺に登録させ、キリスト教の影響の強かった九州では人々に絵踏みを踏ませ、信者を発見しようとした。

島原の乱をきっかけに、幕府はポルトガルとは縁を切り、オランダだけを貿易相手として認めた。その理由は、オランダが日本でキリスト教を広めないと約束したから。さらに、オランダ側は長崎の出島に閉じ込められ、そこで不自由な生活をすることを受け入れたためでもある。もちろん、そんな屈辱的な条件をのんだのは、日本との貿易をすることの利益がとても大きかったからだ。オランダ人は昔から、お金を大事に考えていたらしい。
オランダは口だけではなく、具体的な行動で示す。
島原の乱が起きると、オランダ東インド会社平戸商館の商館長だったニコラス・クーケバッケルは「鎮圧のお手伝いをさせていただきます」と幕府側に持ちかけ、一揆軍が立てこもった原城に海上から砲撃を行った。
幕府に協力してキリスト教徒を攻撃したことで、オランダは徳川幕府の信用を得ることができ、「鎖国」でも、ヨーロッパの国の中で唯一貿易が認められた。

 

しかし、オランダはキリスト教徒を砲撃することに対して、ためらいはなかったのか?
あったかもしれないが、大きなものではなかったはずだ。というのは、そもそもオランダの人たちは新教徒(プロテスタント)で、旧教(カトリック)を強制していたスペインの国王フェリペ2世に我慢できず、1566(または1568)年に反乱を起こしたから。それに成功して、オランダはスペインから独立した。
この八十年戦争で、オランダ人はカトリック教徒と殺し合いをしていたから、原城にいたカトリック教徒に砲撃を加えることは、幕府の信頼を得られることを考えれば「安いもの」と思ったのだろう。
「Dutch treat」という言葉を生んだオランダ人らしく、利益優先の合理的な判断だ。
ちなみに、一揆軍はポルトガルの援軍を期待していたという説がある。

オランダは幕府との約束を守り、ポルトガルのように宣教師を連れてくることはなく、“鎖国”をしていた日本とビジネス(貿易)を中心に付き合いをしていた。ムダを排除して、実利を求めるやり方は日本人と合っていた気がする。

 

 

日本 「目次

江戸時代に、日本の数学『和算』が世界最高水準に達したワケ

【鎖国の出島】オランダ人の日々 屈辱と退屈と輝かしい名誉

江戸時代の日本は超平和だったが、欧州は戦争の洪水状態

スペインの基礎知識!歴史やアラブ(イスラム)文化の影響

 

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメント一覧 (1件)

  • Dutch treat(割り勘)という単語は、昔アメリカで仕事をしていた時に現地のアメリカ人から聞いて初めて知りました。しかもそれが一種の悪口(的なニュアンスのある単語)であるということに驚きました。というのも、単に「オランダ人の」という修飾語にそんな意味があるとは、とうてい理解できなかったからです。
    ですが、その単語を教えてくれたアメリカ人がまたひどい奴でして。何も知らない私に向かって「そう言えば有名なオペラの題で、さまよえるオランダ人女房(Flying Dutch-w・・・)というのがあるな」と真面目な顔して言うものだから私はすっかり信じてしまい、それからしばらくの間、Flying Dutch-w・・・ という単語を、平気で口にしていました。
    若い金髪美人の女の子に指摘されて、正しくは、さまよえるオランダ人(Flying Dutchman)であるということを初めて知りました。顔から火が出るほど恥ずかしかった。くっそ~、恥をかかせやがって、今思い出しても腹立たしい。いつかこの借りは返してやるからな!

コメントする

目次