京都の繁華街・四条河原町にあって、古くてモダンな雰囲気を感じさせる先斗(ぽんと)町。「ポント」という変わった名前は、一説にはポルトガル語の ponta(先)、ponte(橋)、ponto(点)に由来するという説がある。
ポルトガルはスペインと同じイベリア半島にあって、面積は日本の約4分の1だから韓国とだいたい同じだ。首都はリスボンで、国内には約1000万人が住んでいる。
2月13日は、そんなポルトガルが1668年にスペインから独立国として認められた日。
ということで、今回はポルトガルが政治的に、文化的にもスペインから離れた出来事について書いていこう。
1580年、スペイン国王フェリペ2世が「イベリア半島にある国同士だし、仲良くしようぜ」とポルトガルとイベリア連合を成立させる。このときポルトガルは独自の政府や法律を持ち、リスボンは王国の首都として認められていた。しかし、その後、徐々にスペインが侵食するようになり、ポルトガルの自由や主権が奪われていく。
「強国あるある」の展開だ。
フェリペ4世(1605年 – 1665年)の時代になると、ポルトガル政府で重要な役職はスペインの息がかかった人物で占められ、ポルトガルは実質的にスペインの「属国」となる。軍人はフェリペ4世が始めた戦争にかり出され、商人は重税を課せられてポルトガルは苦しい思いをさせられた。
フェリペ4世はポルトガルをスペイン帝国の「州」に変え、イベリア半島を統一するという野望を持っていた。ポルトガル人は祖国を守るため、サヨナラを告げることにした。
1640年にスペインのカタルーニャ地方で反乱(収穫人戦争)が起こると、ポルトガルは「時はきた!」と武器を持って立ち上がる。
この王政復古戦争でポルトガルが勝利したことで、スペインとの同君連合が解消され、1668年のリスボン条約によってポルトガルの独立が認められた。
この戦争と並行して、イングランドとフランスは百年戦争(1337年〜1453年)を繰り広げていた。イングランドのプランタジネット家はこの戦いに敗北したことで、もうフランスを支配することをあきらめ、イングランドを治めることに集中した。結果的に、これが現在のイングランドを形成することとなる。
王政復古戦争の後、ポルトガルにもこれと似たようなことが起きた。
ポルトガルは1668年のリスボン条約によって自由を手に入れると、「独自性」を強めていく。それまでは文化的にも政治的にもスペインに従属していたが、その状態から抜け出すことを決意。ポルトガルはスペインとの差別化を図り、新しいアイデアや技術を求めて西ヨーロッパ、特にフランスとイギリスに目を向けたという。
After 1668, Portugal, determined to differentiate itself from Spain, turned to Western Europe, particularly France and England, for new ideas and skills, part of a gradual “de-Iberianization”, as Portugal consolidated its cultural and political independence from Spain.
こうしてポルトガルは「脱・スペイン」を強め、さまざまな「ユニークスキル」を手に入れていき、現在のような独自の魅力を持つ国となった。
おまけ
歴史の「タラレバ定食」はおかわり自由だ。
もしこの戦争でスペインが勝ち、ポルトガルが吸収された場合、ポルトガルと貿易をしていた日本はどうなったのか? ヨーロッパの国との取引を停止し、今の先斗町も生まれなかったかもしれない。
日本との貿易を続けたことは、ポルトガルが他のヨーロッパの国にはない独自性を身につけた要因になったはずだ。
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