3月24日、日本の歴史を振り返るとこんな出来事があった。
1603年のこの日、徳川家康が将軍(征夷大将軍)になって江戸時代がスタートした。
1860年、彦根藩主で大老だった井伊直弼が暗殺され、幕府の権威は失墜した。(桜田門外の変)。
この事件から約7年後の1867年11月、徳川慶喜が政治の権利を天皇へ返上し(大政奉還)、翌1868年5月に江戸城が新政府軍に明け渡された。同じ年の10月23日に「明治」に改元され、265年間に渡ってつづいた江戸時代は完全に終わった。
幕府滅亡の直接的なきっかけが桜田門外の変だったため、上の2つは江戸時代の始まりと、その「終わりの始まり」を示していると言える。
江戸幕府が滅亡した理由は1つや2つではない。
それをAIに尋ねると、まずはじめに「外国からの圧力」が出てきた。これはアメリカの軍人ペリー率いる黒船艦隊が来航し、日本に開国を迫ったことを指す。これにより幕府は動揺し、日本の社会は混乱した。
次にAIが挙げたのは「幕府の権威の低下」だ。
開国するかどうかを諸藩に相談したことで、幕府の権威が失墜したとAIは言うのだけど、これはよく分からない。でも、桜田門外の変で、幕府の権威は大いに失墜したということは断言できる。大老が江戸城の近くで襲われて殺害された。そんな超重要人物さえ守ることができなかったという事実は、武家政権である幕府の力の低下を示している。
さらにこの事件の後、有力大名の井伊家と御三家の一つである水戸徳川家が対立したことで、徳川幕府の威信は揺らいだ。
幕府が信頼を失ったことから、幕府のやり方に反対する尊王攘夷運動が激しくなり、それが薩摩藩や長州藩などの倒幕運動へ結びつき、1868年に江戸幕府は滅亡した。武士の時代を終わらせたあと、 明治政府が天皇を中心にした新生日本を築いていく。
こうした動きの原動力には、幕府が権威を失ったことで諸国に見放され、「もう幕府では日本を治められない」という空気が広がったことがある。
井伊直弼が襲撃された地点が「×」で、江戸城の桜田門はすぐそこだった。
将軍(幕府)の権威はどこからくるのかというと、それは天皇だ。
徳川家の人間が「将軍になったどー!」と宣言しても無意味で、天皇が任命して初めて将軍になり、「武家の棟梁」として頂点に立って全国の武士に指示を出すことができる。
天皇から任命されなかったら、徳川家は強大な軍事力を持っていても、ほかの大名と同格で上に立つことはできない。
13世紀、ローマ教皇インノケンティウス3世は「教皇は太陽、皇帝は月」と言った。当時のヨーロッパでは皇帝の上に教皇がいて、皇帝は教皇が放つ光(権威)を受けて輝いているに過ぎないと、インノケンティウスは考えたらしい。
この関係は江戸時代の日本にも当てはまる。将軍の権威は天皇に由来するものだった。それなのに、井伊直弼は天皇の許可(勅許)を得ないで、勝手に日米修好通商条約に調印してしまったため、「天皇軽視」の無礼な態度に多くの大名や武士が反発した。それに対して井伊直弼は反対派を力で抑え込んだことで(安政の大獄)、多くの敵をつくり、それが桜田門外の変の原因となった。
彼女の見解では、数百年前のイギリスではキリスト教の信仰があつく、神を絶対的な存在と考えていて、それに比べたら王の権威や立場は低かったから、イングランド議会は国王を処刑し、民衆もそれを支持したという。
以前、大学で歴史を学んでいたイギリス人から、17世紀の清教徒革命で国王が処刑された理由について聞いたことがある。英国王は日本では天皇に相当し、こんなことは日本の歴史では一度も起こらなかった。
彼女の見解では、数百年前のイギリスではキリスト教の信仰が熱く、人びとは神を絶対的な存在と考えていた。それに比べたら王の権威は低かったし、キリスト教の考え方では、人はみな神の創造物だから、その意味で王の立場は民衆と変わらない。だから、国民は悪政を行った王の処刑を支持したという。
幕末の日本では、天皇は神のような絶対的な存在と見なされていて、誰も手を出さなかった。相対的に将軍の立場は低く、桜田門外の変でその権威は地に落ち、天皇さえいたら幕府が滅亡してもかまわないという雰囲気が高まった。そして、天皇を中心にして国をまとめる「尊王論」が全国の武士に支持されるようになる。
それが幕府滅亡の原因となった。
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