「あなたの宗教は、何ですか?」
外国人からはこんな質問をされることがある。
そのときは、こんなふうに答えている。
「わたしは宗教を信じていません。仏教徒ですけど神社にも行きます」
この答えで終わってくれたら楽なんだけど、さらにつっこんでくる外国人もいた。
前にアメリカ人からこう聞かれた。
「じゃ、あなたはagnosticなの?それとも、atheistなの?」
はあ?
何のことだか分からない。
辞書をひくと、「agnostic(不可知論者)」と「atheist(無神論者)」と書いてある。
なにこの「不可知論者」って?
アメリカ人に聞くと、「無宗教」はさらに2つにわかれるという。
「神の存在は信じるけれど、宗教は信じていない」という人。
「宗教も神も信じていない」人。
それでもよくわからん。
アメリカ人に説明してもらうとこんな感じらしい。
I am agnostic. I believe in god or many gods.
私は不可知論者です。神や神々を信じています。
I am atheist. She believes that gods and heaven don’t exist.
私は無神論者です。神も天国の存在も信じていません。
外国人とつきあう機会があって、「わたしは無宗教です」という人は、自分が「agnostic」なのか「atheist」なのかまで考えておいた方がいいと思う。
おなじ「無宗教です」といっても、外国ではこの二つは大きく違うから。
でも、外国人から宗教を聞かれるだけならまだいい。
キリスト教徒、イスラーム教徒、ヒンドゥー教徒の外国人から、こんなことを聞かれて困った。
「日本人と神との関係はどんなものですか?」
日本人と神との関係?
知るんがな。
と言いたいところだけど、そのことを調べたことがある。
ということで、今回はそのことについて書いていきたい。
では、キリスト教では人と神はどのような関係にあるのか?
これはキリスト教だけではなくて、同じく一神教のユダヤ教やイスラーム教においての「人間と神の関係」とも同じ。
「ひろさちやの英語で話す日本の宗教Q&A Japan Book」では、キリスト教での神と人の人間の関係をこのようにかいている。
「『わたしはあなただけを唯一絶対の神と信じ、他の神は認めません』といって、その唯一絶対の神と契約を結びます」
人間と神とは、「契約で結ばれた関係である」といっている。
でも、「契約」ってなんだ?
キリスト教における「契約」どんなものなのか?
よく分からん。
でも、分からなくて当然みたい。
キリスト教における「契約」という考え方は、日本人にとって理解することが難しい考え方だから。
そもそもキリスト教にある神と人との「上下契約」という考えは、日本にはないという。
日本人にないのはおそらく「上下契約」だけである
(聖書の常識 聖書の真実 山本七平)
山本七平氏は、この神と人間の上下関係を次のように説明している。
たとえば日本にも『忠臣』がおり、『忠臣蔵』もある。
しかし当時の家臣は殿様との間に契約を結んでいたわけではなかった。
また、この契約を完全に履行するのが『忠』だという発想があったわけでもないもちろん第二次世界大戦中にも、天皇との間の契約を結んでも死んでも絶対に守るといった発想はなかった。
絶対者なる神との契約を絶対に守ることが『信仰』すなわち『神への忠誠』なのである。したがってその意味は、日本人のいう『信仰』』『信心』といった言葉と非常に違う。聖書の宗教が『契約宗教』と呼ばれるのは、『神との上下契約』という考え方がもととなっている
太平洋戦争中の日本人には、天皇を神にもひとしい存在だと考える人もいた。
それでも天皇は、キリスト教徒にとっての神のような「絶対的な存在」ではなかったという。
だから、「天皇との間の契約を結んでも死んでも絶対に守るといった発想」はなくて、キリスト教でいう信仰や神への忠誠という考えもなかったらしい。
日本では伝統的に、「神と人との契約」という考えがなかった。
だから日本人には、「神との契約を結んだからには、死んでも守る」という聖書の考え方が分かりづらい。
人と神との契約という考え方について、具体例をあげる。
旧約聖書に出てくるユダヤ人にこの考えをみることができる。
ユダヤ教やキリスト教には、「安息日」という日がある。
ユダヤ教・キリスト教で、仕事を休み、礼拝を行う聖なる日
(大辞泉)
今の日本で学校や仕事が日曜日に休みになっているのは、ユダヤ教やキリスト教のこの安息日の習慣にもとづいている。
キリスト教徒やユダヤ教徒が安息日に仕事をするのは、基本的にはダメ。
必ず休まなくてはならない。
キリストが生きていた2000年前は、これが厳しく守られていた。
この時代の安息日がどのようなものであったか?
「旧約聖書入門 三浦綾子」にそのことがかいてある。
当時安息日に禁じられていたことの、一部をここに紹介してみよう。いかなることがあろうと、次の事項は、絶対禁止されていたのである。
・種まき ・刈り入れ ・売買 ・点火 ・夫婦生活
・食事の用意 ・九百メートル以上の歩行
こんな感じだったらしい。
「九百メートル以上の歩行」ってなんだそりゃ?
「火を点けることも食事を作ることも禁止されている」となると、逆に何ができるのかわからない。
でも、神と契約を結んだ以上、信者はこれを必ず守らないといけない。
もし、この労働を禁止された安息日に、敵に襲(おそ)われたらどうなるか?
シリア人に襲われたユダヤ人はこのようにした。
安息日を文字どおり死守した極端な例として、これも「旧約聖書入門」で書いたことだが、一群のユダヤ人が、安息日に攻撃を加えてきたシリア人に対して、安息日を犯すよりも、甘んじて死を選らんだことはあまりに有名である
(新約聖書入門 三浦綾子)
敵と戦うことも「仕事」とみなされていた。
だからユダヤ人はシリア人から攻撃をうけたら、「神との契約を破って戦うか?」「戦わずに死を選ぶか?」の二つにひとつを選ぶしかなかった。
そしてユダヤ人は信仰を守ることを選び、戦わずにシリア人に殺されるままになった。
これは旧約聖書に出てくるユダヤ教徒の話だけど、キリスト教徒にとっても神との関係もこのユダヤ教徒と神との関係とおなじ。
信者は、神との契約を絶対に守らないといけない。
「修学院離宮」
このアメリカ人との京都旅行で行ったところ。
神との契約を守ってシリア人に殺されることを選んだユダヤ人について、どう思う?
アメリカ人とイギリス人の友だちに聞いてみた。
ちなみに、ひとりは「agnostic(不可知論者)」なアメリカ人。
もうひとりは「atheist(無神論者)なイギリス人。
考えかたは違う二人だけど答えはおなじ。
「自分だったら、契約を破っててきと戦う。でもユダヤ人が契約を守って死んだことは理解できる」
神との契約を守らなかったら、永遠の地獄に落ちてしまう。
でも、契約を守って死んだら天国に行くことができる。
「神との契約を守るために、殺されることを選ぶ」という考え方は分かるし、その当時の人たちなら本当にそうやっても不思議なことではない。
と話していた。
「じゃ、今のアメリカやイギリスで、『死んでも契約を守る人』っているの?」
そう聞くと、「分からないけど、なかにはそんな人がいるかもしれない」
という。
キリスト教徒のアメリカ人やイギリス人からしたら、ユダヤ人の行動よりも「日本人が、自分の行きたいお寺や神社に行って好きなお守りを買う」という考え方の方が不思議だという。
まとめ。
結局、日本では「神との上下契約」という考えがなかった。
だから人間と神との関係は、キリスト教徒のように契約で結ばれた関係ではない。
日本での人と神との関係は、なんの神や仏とも契約を結んでいない「自由な関係」になる。
基本的にそう考えていいと思う。
日本人はそういう考えをしているから、「契約を死んでも守る」という発想に強い抵抗を感じると思う。
さっきのユダヤ人の話のように。
キリスト教では、神と人とは契約で結ばれた関係である。
でも、そうなると離婚で困ってしまう。
先ほど、こんな文があった。
「絶対者なる神との契約を絶対に守ることが『信仰』すなわち『神への忠誠』なのである」
「絶対に守る」ということは、「神との契約は絶対に破ることができない」ということになる。
だからキリスト教では、離婚することが難しい。
結婚式で、「死ぬまでこの人を愛します」と神に誓っている。
神にそう誓ったいじょう、何があってもその言葉を守らないといけない。
考え方としては、神に誓ったのだから離婚することができなくなる。
イタリアやフィリピンのキリスト教徒(カトリック)は、離婚をすることができない。
次回に、そのことを書いていこうと思う。
「神と契約で結ばれた関係」という考えかたが、キリスト教徒の日常生活にどんな影響を与えているのか?
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