ことしの春、アメリカ人、トルコ人、リトアニア人と花見に行ったとき、なんでか忘れたけど「クリミア戦争」の話になった。
平仮名で「くりみあ戦争」と書くと、かなりカワイイこの戦いは、1853年にロシアとトルコ・イギリス・フランス・サルデーニャ連合軍との間ではじまった。
冬でも使える不凍港がほしかったロシアは南下し、クリミア半島でトルコとぶつかる。
アフリカやインドに植民地を持っていたイギリスやフランスはロシアの南下政策を不安視し、トルコに加勢して一緒にロシア軍を撃破した。
それがクリミア戦争だ。
この戦争に対するアメリカ人、トルコ人、リトアニア人の見方は全員一致で「ロシアざまあみろ」。
ロシアと直接たたかったトルコ人がそう言うのは当然として、なぜほかの2人も?
理由をきくと、リトアニアはむかしロシアに占領されていた歴史があるから、トルコ側が勝ったことよりロシアが負けたことが理由抜きにうれしい
アメリカ人は単にロシアが嫌いだったのだ。
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「君はクリミア戦争についてどう思う?でも、日本人には関係ないか」と、リトアニア人からいきなり話を振られた。
日本とクリミア戦争の関係?
場所は日本から離れすぎだし、たたかった国も日本とは1ミリも関係ない。
そもそもこの戦争がはじまった1853年といえば、日本はまだ鎖国の真っ最中だ。
だから日本とクリミア戦争には何もかかわりもない。
そう結論づけるしかないだろう。
と思いきや、案外そうでもないんだぞ。
日本が開国したのは翌年の1854年。
1853年にアメリカからペリーがやって来て開国を要求する。その次の年に、アメリカと日米和親条約を結んで下田と箱館を開港し、徳川家康以来の鎖国は終了した。
なんてね。徳川家康はバリバリの開国派だったから鎖国とは関係ない。
この日本開国とクリミア戦争はウラでつながりがあるのだ。
アメリカが日本を開国させたかった理由は「鯨油がほしかったから」だけど、それが可能になったのは、このときヨーロッパの関心がクリミア半島に集中していたということがある。
この時期ペリー提督を派遣して日本に対して砲艦外交を展開できたのは、この戦争によって欧州列強の関心が日本を含めた東アジア地域にまで及ばなかったことも理由の一つである。
「鯨油がほしかったから開国」ということについてはここをどうぞ。
間接的だけど、クリミア戦争は日本が開国するきっかけになっているから、まったく無関係でもない。
クリミア半島の反対側、ロシアの最東端にウラジオストクがある。
もともとこの都市は中国(清)の支配地域にあって、1860年にロシアの都市として建設された。
さて、ロシアにとってクリミア戦争の目的は何だったか?
それは、南下して不凍港を手に入れるためだった。
クリミアで負けたロシアは西側ルートをあきらめ、今度は東に目をつける。
ウラジオストクとは「東方を支配する町」という意味で、ロシアはやる気満々だった。
東側から南下するということは、ロシアは日本とぶつかる運命にあったのだ。クリミア戦争でロシアが勝っていたら、東ルートを選択することはなかっただろう。
それで1904年、ついに日露戦争がぼっ発。
「で、勝ったのはどっちだ?」と聞くリトアニア人たちに日本の勝利を伝えると、またもや全員一致で「やった!ロシアざまあみろ」。
それにしても、ロシアはどうして全方面から嫌われているのか…慢心、環境の違い。
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