ボクが初めてカンボジアを旅行したのは1995年のとき。
そのときタイから飛行機に乗って行ったのだけど、タイの首都バンコクからカンボジアの首都プノンペンの「差」がすさまじかった。
近代的なビルが立ち並ぶバンコクとフランス植民地時代の建物が並ぶプノンペンとでは、都市の発展としては30年ぐらいの違いを感じた。
タイは東南アジアで唯一、独立を守っていた国だから、「これが植民地にされた国と独立国との違いか!」と思ったのだけど、現地のカンボジア人に話を聞いたら「そんなことはない」と言う。
「20年ほど前にポル=ポト派が行った虐殺のせいだ。このとき本当にたくさんの人が殺された。とくに教師やお坊さんなど知識のある人間が根絶やしにされてしまったから、その後の発展が大きく遅れてしまったんだ」
そんな話をする。
カンボジアの発展が遅れたのはフランスではなくて、カンボジア人のせいらしい。
1970年代、ポル=ポト派が政権をにぎったとき、自分たちに敵対する人間やそう思われる人間など150万人を殺害したといわれる。
ポル=ポト(1978年)
そんなポル=ポト政権のナンバー2、ヌオン・チアが最近プノンペンの病院で亡くなった。
朝日新聞の記事(2019年8月5日)
14年8月、市民の強制移住や処刑など「人道に対する罪」を審理する裁判の一審で最も重い終身刑を言い渡され、16年11月に刑が確定した。18年11月には少数民族らを虐殺した罪でも終身刑を言い渡され、控訴していた。
旧ポル・ポト政権のナンバー2死去 虐殺罪で終身刑判決
プノンペン郊外のキリングフィールド(処刑場)
95年に行ったときは、ここに埋められた遺体を掘り起こしている最中だと聞いた。
ポル=ポト派にとって理想的な国民は、自分の考えを持たずに盲目的にしたがう人たち。
それで知識のある教師や医者、僧侶などが拷問を受けて虐殺された。
知識があるかどうかの判断基準は本当にいい加減。
日焼けをしている人間は農民だからいい、眼鏡をかけているのは本を読んでいる証拠だから処刑対象だ、といったものだった。
眼鏡をかけている者(ポル・ポトの右腕ソン・センは眼鏡をかけていたにも関わらず)、文字を読もうとした者、時計が読める者など、少しでも学識がありそうな者は片っ端から殺害しており、この政策は歴史的にも反知性主義の最も極端な例とされる。
ポル=ポト派の人間が来ていた服
ポル=ポト時代、プノンペンに政治犯を収容する施設「S21 (トゥール・スレン)」がつくられた。
政治犯といっても、無実の人が多かったのだけど。
約3年の間に14,000~20,000人が収容されたという。
そのうち生還できたのは8人だけ。
このトゥール・スレンには3回ほど行ったことがある。
ここは収容者が入れられた独房。
収容者は足に鉄の鎖をつけられた。
小さな箱はトイレ代わりに使われていたもの。
ここで拷問を受けたり処刑された人たち
こういう大人を拷問・処刑していたのは子供たちだった。
そしてその子供たちもあとで処刑された。
看守には10代の少年少女がなる事が多かったが、S21の秘密を守るための粛清の危険に常に晒されていた。実際、多くの看守が後に収容され処刑されている。
当時、ここに入れられた人たちは何を思っていたのか。
「こんなところに閉じ込められて、どうやって生きる希望を持ち続けていたんですかね?」
トゥール・スレンを一緒にまわっていた現地ガイドに聞いたら、彼はこう言う。
「そんなものは真っ先に捨てたと思いますよ。ここに入れられたら、殺されることは分かっていましたから。『生きて出られる』なんて希望を持っていたら、かえって辛いじゃないですか。『早く死にたい』『楽に殺してほしい』と願っていたでしょうね」
マジかよ。それじゃまるで、ダンテの神曲に出てくる「地獄の門」じゃないか。
*神曲の「地獄篇第3歌」には地獄への入口の門が登場する。その門には、「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」という言葉がある。
でも、ガイドの言葉は正しいかもしれない。
たまたまこの時代のカンボジアにいて、ポル=ポト派に捕まって別の収容所に入れられたフランス人の民俗学者は手記にこう書いている。
ここでの最初の数日間は一生の長さに匹敵する。抵抗の叫びはしだいに弱まってゆく。ここで人は忍耐と諦めを学ぶ。自分の無罪を信じるのをやめなければならないことを理解する。そもそも、鎖に繋がれた人間が有罪でいられようか?みずからを省み、おのれの利己主義、無責任などを自覚する。自分の有罪について考え、ついにはそれを認めようとする。
「カンボジア 運命の門 (フランソワ・ビゾ) 講談社」
こんな不幸な歴史がなかったら、いまごろカンボジアはタイと同じぐらい発展していたかも。
ポル=ポト派による虐殺終了から26年後のカンボジアの人口(2005年度)。
25歳以上の人はこの時代に殺されて激減している。
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カンボジアは平和に発展していって欲しいですね。 郊外や森の中はまだまだたくさんの地雷が埋まってると聞きました。 もう大丈夫と言われたところを耕していたら地雷が残っていたということもまだあるそうです。 伝統的な物もすべて失ったからとり戻すのに世界中から資料を集めていると聞きます。
ポルポトは結局どうしたかったんでしょうね。 自分一人になるまで殺し続けるつもりだったんでしょうか?
シリアにも平和になって欲しいですね。
カンボジアの市場にあった靴屋で、左右の片方だけを売っていました。
地雷で片足をなくした人のためと聞いてビックリです。
課題は都市の近代化と伝統文化の復活もありますね。
ポルポト派の後始末が本当に大変ですけど、いまでは首都プノンペンに東南アジア最大のイオンがオープンしてかなり発展しているようですよ。
なぜなのか? ナチスのユダヤ人差別と違って、同じ民族なのだから見た目が違うわけでもないのに、なぜそこまで残虐に自国民を皆殺しにできるのか? なぜそんな行為が許されてしまうのか? やめさせる者は誰もいなかったのか? 宗教的な理由でもないだろうに、彼を突き動かした動機は何なのか? 結局は「狂気」ゆえなのか?
自分には全く理解が出来ません。
ポルポト派の虐殺は人種的憎悪ではなくて、思想的な憎悪です。
貨幣経済さえ否定する彼らの極端な共産主義を守るために、違う考え方を持った人間やそう疑われた人が捕まって殺されていました。
でも、処刑した人間が逆に処刑対象になるということも覆ったです。
「狂気」である点は間違いないです。