10月22日、天皇陛下が即位を宣言される「即位礼正殿の儀」がおこなわれて新しい天皇が誕生した。
NHKの世論調査によると、皇室に親しみを感じている国民は10年前より増えている。
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令和の日本人は天皇や皇室に親近感や敬意をもっているけど、昔はどうだったのか?
今回は明治時代の日本について書いていこうと思う。
まずはクエスチョン。
この和装でひげ面、そろそろ育毛剤が必要かなと思われる人物はだれでしょう?
答えは川口慧海(えかい)というお坊さん。
1897年(明治30年)に仏教の経典を求めてチベットへ旅立った超人的なトラベラーでもある。
当時のチベットは鎖国状態にあって、外国人の立ち入りを禁止していた。
チベットに入った日本人は公式記録では川口慧海がはじめてで、慧海の記録によって欧米社会もチベットの内情を知ることとなる。
彼のしたことは本当にすごくて、すご過ぎて、なかなか信じてもらえなかった。
慧海の体験談は一大センセーションを巻き起こした一方で、彼のチベット入境は俄かには信じられず、当初はその真偽を疑われる結果となってしまった。
慧海がチベット入りしたころの日本は、朝日が天に昇るような上昇気流の勢いにあった。
アジア初の近代憲法である大日本帝国憲法が1890年に施行されたことや1895年の日清戦争での勝利によって、欧米諸国は日本の力を認めて不平等条約の撤廃に応じた。
*オスマン帝国の憲法はすぐに無効化されたから、実質的には日本がアジア初。
そんな時代にチベットへ入った川口慧海は1月1日の元旦の朝、午前3時に起きて、はるか東に向かって読経と“お祝い”をした。
仏教の規定として我が大日本帝国今上皇帝陛下の万歳万万歳を祝願すると同時に、皇后陛下ならびに皇太子殿下の万歳万万歳を祝願して皇国の御威光がますます万国に輝かんことを深く願うというのがつまり我が仏教の世間門に対する主義ですから、
「チベット旅行記 (河口 慧海)」
天皇は天照大神の子孫で神道の頂点にいる存在なのに、慧海ほどの超厳格な仏教僧が読経礼拝をしている。これが明治日本人の一般的な考え方や感覚なんだろう。
神仏ごちゃ混ぜの信仰心はいまもほとんど変わっていない。
このとき慧海のまわりに日本人はひとりもいなかったから、これは国民として自発的で自然な行為だ。
ところで、日本人はいつ国民になったのか?
ふつうの日本人が自分を「日本国民」と意識したのは、日清戦争のころという指摘がある。
これは近代日本が最初におこなった本格的な対外戦争で、全国各地から集まった日本人は一丸となって国のために戦い、政府も国民にそれを要求した。
そのさい明治天皇は国民統合のシンボルになった。
そうしたことによって「日本人」や「日本国民」という自覚が広がっていく。
檜山幸夫が指摘した「国民」の形成である。たとえば、戦争遂行の過程で国家は人々に「国民」としての義務と貢献を要求し、その人々は国家と軍隊を日常的に意識するとともに自ら一員であるとの認識を強めた。
こんな明治の気風が慧海に影響をあたえているはず。
小国の日本が大国の清を破る様子を描いたイギリスの風刺画
明治天皇に目を向けると、「国民とともにある」ということを具体的に実践された天皇は明治天皇がはじめてだろう。
明治天皇は御所をでて、各地をまわって国民を直接見ていた。
庶民の日常生活の“邪魔”になることを懸念して、天皇は地方へいくときにこんな命令をだす。
お供の人間には、往来の邪魔をしない、農作業に支障をきたすようなことはしないことが命じられました。国民のありのままを見ることが重要だと思ったのでしょう。
「明治天皇を語る ドナルド・キーン(新潮新書)」
明治憲法で天皇の位置付けは「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定められていたけど、明治天皇は国民に配慮していたのだ。
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軍国主義から民主主義にかわったいまの日本は昔といろいろ違うけど、親しみと敬愛で結ばれた現在の天皇と国民の関係は明治時代からはじまったと思う。
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