毎日新聞にショッキングな記事(2019年11月7日)がある。
クマに襲われ8人負傷、失明も 被害受け秋田市で誘引ないか緊急点検
秋田市の住宅地で男性が熊に襲われて両目を失明。
秋田県では9月以降、8人が熊に襲われてケガをしていることから、県や市、県警が熊が潜んでいそうなところやにおいで熊を誘引する肥料などがないか点検しているという。
兵庫の自然保護団体が秋田県知事にきょねん(2018年)、熊を殺さないで山へ帰せという要望書をだした。
ことしは視力を失った男性に治療費をだしてくれるのいいのだけど。
それにしても、最近日本では熊による被害が続出している。
富山では4日間連続で熊が人を襲っていて、14日には14人目の被害者がでた。
富山 NEWS WEB(11月14日)
4日連続でクマによる人身被害
だからといって、熊を銃で撃ち殺すと苦情が殺到するのがいまの日本。
ことし8月、北海道札幌市で住宅街に熊が連日で出没した。
家庭菜園が荒らされたこともあって、住民の間では不安と恐怖が高まっていた。
そこで札幌市から依頼をうけた猟友会がみごとに仕事をやってのける。つまり、熊を銃で撃ち殺した。
すると「なんで熊を殺したのか?」「麻酔銃を撃ってから山へ戻すべきでは?」といった無責任な批判が殺到。
麻酔では効果があらわれるまでに時間がかかるから、興奮した熊が人を襲う可能性がある。それで熊を駆除したと市は説明するけど、寄せられた意見(北海道外が多かったらしい)を無視することもできず、今後は熊を銃殺しないで済む方法を考えるという。
そんな対策があったらすでにしていただろうし、熊に配慮したら、それだけ住民や担当者が危険になるような気がしてならない。
北海道での熊被害といえば大正4年に、7名が死亡し3名が重傷を負った三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)という最悪の事件がおきた。
赤ん坊を身ごもっていた女性は「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」と叫んだけど、ヒグマは上半身から喰い始めた。
襲われてからでは手遅れなのだ。
くわしいことはこの記事を。
三毛別羆事件を再現したもの
先月10月、タイの住宅地に4mの巨大コブラがあらわれた。
捕獲されたコブラはこそあと自然へ返される。
「野に放っていいのか?」と思うけど、仏教思想の影響が強いタイでは生き物の命を奪う行為が嫌われている。だから野良犬が殺処分されることもない。
(少なくとも2018年まではそうだけど、いまは分からない)
さて仏教の国といえば、最近このブログにちょくちょく登場する川口慧海(明治時代にチベットへ行った日本人僧)がチベット人のと殺方法について書いている。
*チベット人仏教徒はふつうに肉を食べていた。
ラサ府では殺す度にお経の本を頭に載せてありがたい事を聞かして遣るというということもない。
「チベット旅行記 (河口 慧海)」
チベットでは動物を殺す前に仏教の経本を頭にのせて、お経を聞かせてからあの世へおくっていた。
首都のラサでこれをしないのは、イスラーム教徒の中国人がと殺していたから。
かわいそうなら殺すなよ、と思わないでもないけど、チベット人は自分にとても正直で人間の限界も認めていた。
チベットの大臣が慧海にこう話す。
誠に肉を喰うのは罪が深いように思われるけれども、いかにも我々凡夫は馬鹿な者で家に帰ると自分の食卓の前に肉がないと何にも喉へ通らない。
「チベット旅行記 (河口 慧海)」
食べるために殺すけど、慈悲はかけてやる。
そうやってチベット人は現実と理想を両立させていた。
熊との共存を責任と費用をもって実現してくれるのならいいけど、それができなければ、まず守るべきは熊より人。
でも、熊を殺すのはかわいそうという気持ちはわかるから、年に一度でも、殺害した熊にありがたい事を聞かせてやる機会をもうけたらいい。
ネットで見たら「熊供養」は各地である。
命は奪うけど魂は救うというのはどうか。
おまけ
記事中、「チベット人のと殺方法」「中国人がと殺していたから」という文が読みづらいと思わなかっただろうか。
これは、「とさつ」を漢字変換しても「屠殺」がでてこなかったから。
あれ?と思ったら、ATOKやMSIMEなどの日本語変換プログラムでは変換されないようになっていた。
いま「屠殺」という言葉はタブー視される傾向にある。
それはわりと最近からで、「北斗の拳」でケンシロウがハート様に「ブタは屠殺場へ行け!」と言ったセリフがいまは「ブタ小屋へ行け!」になっている。
ただこれは動物愛護精神とは関係なく、「屠殺」という表現は被差別部落民に対する差別用語という批判があるかららしい。
こちらの記事もどうですか?
蛇の胴体が長い理由は?キリスト教では神の罰、科学では遺伝子のため。
「屠殺」が差別用語扱いになっているとは知りませんでした。って言うか、冗談じゃないの? 屠殺や屠畜は、動物を食したり皮革製品を採取したりするためには必ず必要な行為ですよ。これを「差別用語だ」と主張する人は、それこそ差別意識があるからではないですかね? 私には理解不能です。そんな目で見るよりも、屠殺・屠畜業に従事している人達へ感謝するべきではないですか?
また、(自分独自の判断で決めた)差別用語を撤廃したいと考えている人であっても、勝手に日本語を破壊する権利はないと思います。
これは私も今回はじめて知りました。
放送禁止用語にもなっているようなので、言葉としても使えないと思います。
そいえばここ数年、テレビでこの言葉を聞いた記憶がありません。
北海道でクマが住宅街へ現れる。これは北海道では結構あり得ることです。ヒグマは日本最強の獣です。
とてもじゃないですが人間が太刀打ちできる相手ではないです。昔、どこかのワンダーフォーゲル部が北海道の山地でクマに襲われて確か4人が犠牲になったことがありました。
自然の生態に対して優しいことを言っていては自分が死んでしまいます。自然擁護団体の意見も大事ですがそんなことを言っていると自分が死んでしまいますよ。もっと現実を見る努力が必要だと思います。
同感です。
秋田や北海道での銃による熊対策に抗議をする人は外に住んでいる人が多いと聞きました。
反対するなら具体的で有効な代案を提示するべきです。
それをしないでただ反対していれば、住民やハンターの命が危険にさらされますよ。