中国・唐の時代に曹松(そう しょう)という詩人がいて、彼は日本でいまも有名な言葉を残した。
「一将功成りて万骨枯る」
辞書的にはこんな意味。
一人の将軍の輝かしい功名の陰には、戦場に命を捨てた多くの兵士がある。成功者・指導者ばかりが功名を得るのを嘆く言葉。
「デジタル大辞泉の解説」
英雄はその名を歴史に残すけど、1人の英雄をつくり出すために犠牲になった人たちは、その人を知る人が消えれば誰の記憶にも残らない。
現代風にいえば、手柄を独り占めして出世する上司を部下が嘆くようなもの。かも。
くわしいことはこの記事をどうぞ。
先ほどの詩は9世紀の黄巣の乱によって荒れ果てた中国を詠んだもので、この乱では「国破れて山河在り」という日本でおそらく最も有名な漢詩も生まれた。
と上の記事で書いたとき、「待てよ?ひょっとして」と思って調べてみたら、ひょっとした。これは少し時代が違う。
「国破れて山河在り」も同じ唐の戦乱で誕生した詩だけど、これは黄巣の乱の100年ほど前の「安史の乱」だった。
それでそのときは書けなかったので、今回はこれをとり上げようと思う。
安禄山(あんろくざん)と盟友の史思明(ししめい)が中心となって、8世紀の唐の時代に起こした大反乱が安史の乱。
反乱軍の勢いはすさまじく、長安・洛陽という重要都市が占領されて、唐の皇帝・玄宗は地方へ逃げ延びるしかなかった。
そのさい、西施・王昭君・貂蝉とならぶ中国四大美人のひとりで、玄宗の愛する楊貴妃が殺された。
楊貴妃はクレオパトラ・小野小町とならぶ世界三大美人のひとりでもある。
悪党はそれにふさわしい最期をとげる。
唐の皇帝を追い払って新皇帝を名乗った安禄山は病気になって、そのあと息子の安慶緒(けいじょ)に殺された。
史思明はその安慶緒を殺して皇帝となるも、その後、息子の史朝義(しちょうぎ)に殺された。
763年に鎮圧されたものの、安史の乱で唐は大ダメージをうけて弱体化する。
この影響は日本にもおよび、758年に渤海から帰国した小野田守から報告を受けた朝廷は九州の防備を固めた。
反乱の発生と長安の陥落、渤海が唐から援軍要請を受けた事実を報告し、これを受けた当時の藤原仲麻呂政権は反乱軍が日本などの周辺諸国に派兵する可能性も考慮して大宰府に警戒態勢の強化を命じている。
楊貴妃
安史の乱のとき、唐の武将・張 巡(ちょう じゅん)が守る睢陽(すいよう)が敵に囲まれる。
援軍は来ず、城内で食べられる物は見る見るうちになくなっていく。
馬もスズメもネズミも食べ尽くし、そのあと起きたことは、戦前の東洋史学者、桑原 隲蔵(くわばら じつぞう)の記述をどうぞ。
張巡は眞先にその愛妾を殺し、許遠はその從僕を殺して士卒の食に充て、續きて城中の婦人を、最後に戰鬪に堪へ得ざる老弱の男子を糧食に供したことは、有名なる話である
「支那人の食人肉風習 (桑原 隲蔵)」
張巡は自分が愛した女性、許遠という武将はお付きの人間を殺してその肉を兵士に食べさせた。
そのあと城内の女性や力のない男性も食料にして戦いを続ける。
でも結局、睢陽は落ちて張巡は賊軍によって斬殺された。
安史の乱で起きたこの籠城戦は、戦前も戦後の日本でも有名な話でウィキペディアにも説明がある。
張 巡
台湾のサイトで「張巡は食人惡魔か武神か?」という記事があった。
「 『睢陽之戰』,是中國歷史上最有名的一場守城戰」と、睢陽の戦いは中国の歴史上最も有名とある。
東アジアの広い範囲で知られているのだろう。
こんな背景を踏まえたうえで、杜甫(とほ)が安史の乱の中国を見てつくった「春望」という漢詩を味わってほしい。
国破れて山河在り 城春にして草木深し
時に感じては花にも涙を濺ぎ 別れを恨んで鳥にも心を驚かす
(意味)
国家(唐の国都当時は長安)は崩壊してしまったが、山や河は変わらず、
長安城にも春が訪れ草木が生い茂っている。
時世(戦乱の時期)の悲しみを感じては花を見ても涙がこぼれおち、
家族との別れをうらめしく思っては鳥の鳴き声にすら心を痛ませる。
(あとは現代語訳のみ)
三月になってものろし火(安禄山の乱による戦火)は消えることはなく、
家族からの手紙は万金にも値する。
(心が痛んで)白い頭を掻けば掻くほど髪の毛が抜け落ち、
まったくかんざしを挿せそうにもないほどだ。
「詩聖」と呼ばれる杜甫
よかったら、こちらもどうぞ。
世界で日本とインドだけが行うこと・原爆犠牲者への黙とう~平和について①~
コメントを残す