令和と江戸時代の日本を食文化で比較すると、いちばん大きな違いはきっと「肉」。
焼肉、ハンバーグ、親子丼や牛丼などいまの日本の食文化に肉は欠かせない。
特に小学生にとっては給食から肉がなくなったら、学校へ行く目的の8割はなくなってしまう。
でも江戸時代の日本人はぜんぜん違っていて、肉食をほとんどしなかった。
といってもここでいう肉とは豚や牛などの四足獣の肉で、魚やウナギなどはバクバク食べていた。
江戸時代を通じてみると、徳川綱吉が生類憐れみの令を出した17世紀後半(元禄時代)のころ、肉食をタブー視する傾向がとても強まった。
ただ生類憐れみの令で犬が極端に保護されたおかげで、中国や韓国、ベトナムでみられる犬肉食の文化が日本からは消えた。
豚肉については18世紀の百科事典『和漢三才図会』(わかんさんさいずえ)で、長崎や江戸で育てられていたことが書いてある。
ちなみに最後の将軍・徳川慶喜は豚肉が大好きだったことから、豚一様(ぶたいちさま)と呼ばれた。
犬や豚に比べて、日本人にとっては牛肉を食べることへの抵抗感が強かった。
江戸時代、牛肉は薬用して食べられていたという。
くわしいことは滋賀県のホームページをどうぞ。
当時、公然と食べることができなかったので薬という名目を使ったのかもしれません。
儒学者(陽明学者)の熊沢蕃山(はんざん)は、日本人が牛肉を食べない理由をこう考えたとさ。
牛肉を食べてはいけないのは神を穢すからではなく、農耕に支障が出るから、鹿が駄目なのはこれを許せば牛に及ぶからなのだ
同じ理由で牛肉を食べない(または食べなかった)という話をタイやベトナムでも聞いたことがある。
明倫館(長州藩)と弘道館(水戸藩)にならぶ日本三大学府の「閑谷学校」(しずたにがっこう)を建てたのがこの熊沢蕃山。
そんな日本に黒船がやってきて開国後、西洋の肉食文化が広がっていく。
蘭学者の緒方洪庵が開いた適塾(てきじゅく)で学んでいた福沢諭吉が幕末の大阪で、牛鍋(うしなべ:すき焼きのこと)が食べられる店は2件しかなかったと自伝(福翁自伝)に書いている。
その時大阪中で牛鍋を喰わせる処は唯二軒ある。一軒は難波橋の南詰、一軒は新町の廓の側にあって、最下等の店だから、凡そ人間らしい人で出入する者は決してない。
江戸時代の日本ですき焼き(牛肉)は、「まともな人間(およそ人間らしい人)」が食べるものとは思われていなかったのだ。
牛鍋屋の常連だったのは、全身に入れ墨を入れたヤクザ者や福沢諭吉など適塾で学ぶ人間で、出された肉も病死した牛かもしれないような得体のしれないものだったという。
上の自伝には、「一人前百五十文ばかりで牛肉と酒と飯と十分の飲食であったが、牛は随分硬くて臭かった」とある。
牛肉と酒と飯が“ヤクザ飯”だったようだ。
このときのすき焼きは今と違って、みそで味をつけていた。
キッコーマンのホームページから。
そもそもこの牛鍋、明治の初めは味噌仕立てだった。獣店 けだものだな の鹿鍋や猪鍋の食法を受け継いだからである。
日本人が本格的に牛肉を食べるようになったのは明治政府が奨励してからで、すき焼きを食べることが文明開化の象徴にもなった。
*「文明開化」という言葉は福澤諭吉が「civilization」の訳語として使ったのが始まりだ。
そんなことで江戸時代、「最下等の店だから、凡そ人間らしい人で出入する者は決してない」と言われていたすき焼きが明治になると、「牛鍋を食わないとは、とんでもない時代遅れな奴だ」といわれるほど日本人の食文化は変化して、令和のいまでは欠かせない料理となったでござる。
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江戸時代まで日本人がほとんど牛肉を食べなかったもう一つの理由として、「口にできる牛肉が不味かった」ということがあります。というのも、この記事にも書いてあることですが、牛は本来農耕用に使役する家畜なのであり、これが年をとってもう働けなくなってからようやく屠殺して食用となるため、結果的に食べることのできた牛肉は高齢のやせ細った牛の肉ばかりだったという訳です。
つまり、明治時代になって、日本人は初めて「最初から食用を目的とした美味しい牛肉」を食するようになったのです。
それが今では、和牛の美味しさは世界に冠たるものとして海外でも知られるに至ってますね。
食文化として定着していなかったから、はじめから食用として牛を育てる技術や知識がなかったのですね。
明治から本格的に学んでいまでは世界に輸出するぐらいですから、大したものです。
このまえ神戸マラソンのために日本へ来た台湾人の知り合いも神戸牛を食べていました。あの味は別格らしいです。