クイズから始めます。
次の人物はだれだ?
彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰をせずにはおかなかった。幾つかのことでは人情味と慈愛を示した。
彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。貪欲でなく、はなはな決断を秘め、戦術に老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。(ルイス・フロイス)
(日本絶賛語録 小学館)
答え
織田信長
イギリスのスーパーで売られている、「Satsuma(サツマ)」というみかん。
今回の内容
・イギリスではみかんを「サツマ」という。
・生麦事件
・「一撃必殺」の示現流
・イギリスではみかんを「サツマ」という。
去年の冬、イギリス人の友人とこたつに入ってみかんを食べていた。
そのときに、彼がこんなことを言う。
「このみかんって、イギリスでは『Satsuma』って言うんだよ。Satsumaって言葉は、日本の薩摩藩のことなんだってな」
ん?
イギリスでは、みかんを「Satsuma(サツマ)」って言うの?
サツマイモじゃなくてみかんを?
「そう、みかんのこと。オレがイギリスにいたときは、Satsumaって中国の地名だと思ってたよ」
「サツマ」という言葉が「サツマイモ」ではなくて、「ミカン」を意味するという。
そんなことは、初めて聞いた。
そもそもなんでイギリスでは、ミカンのことを「Satsuma(さつま)」と呼ぶようになったのか?
不思議に思ってさっそく調べてみた。
すると、ロンドンで暮らしている日本人のこんなブログを見つけた。
なんのことはない、日本の温州みかんのことなんですけど、
なんでSATSUMA?と、謎だったんですが、
一年くらい前に職場にあった新聞の特集記事で初めて知りました。幕末期に薩英同盟が結ばれた折に友好の証として薩摩藩から英国に苗が贈られた事に由来するんだそうです。
反対に英国から薩摩藩に贈られたのがバークシャー種の豚で、
これと在来種を掛け合わせたりして改良されたのが現在の黒豚なんだって~。
ここに書いてあるように、幕末、イギリスと薩摩藩はとても良い関係だった。
でもその友好関係は、薩摩藩の藩士がイギリス人を切り殺したことから始まっている。
それが生麦事件と呼ばれるできごと。
・生麦事件
1862年に生麦事件が起きた。
薩摩藩の最高実力者であった島津久光らの一行が歩いていたとき、イギリス人がその行列の前を横切ってしまった。
これは当時の日本人の考え方からしたら、許せない無礼なこと。
当然、薩摩藩の藩士が激怒する。
生麦事件
1862年、薩摩藩の島津久光一行が江戸からの帰途、その従士が横浜近郊の生麦で、イギリス人4人の行列への非礼を咎め、3人を殺傷した事件。これが原因で翌年に薩英戦争が起こり、薩摩藩は賠償金の支払いと犯人の処刑を確約した。
(日本史用語集 山川出版)
・「一撃必殺」の示現流
生麦事件で襲われたイギリス人は、とんでもなく運が悪かった。
というのは、当時の薩摩藩は日本の藩のなかでも特に武芸に秀でた藩として有名だったから。
薩摩の剣術は「示現流」というもので、特に最初の一撃に凄まじい破壊力があった。
それで「一の太刀を疑わず」とか「二の太刀要らず」なんて言われていたのだ。
「二の太刀要らず」とは、最初の一撃で敵を仕留めるから2回目の太刀は必要ないということ。
まさに一撃必殺の剣。
まあ実際には、必ずしもそうもでなかったようだけど。
他の藩の剣豪と言われるような侍であっても、薩摩の侍とは立ち合いたくはなかっただろう。
新撰組局長の近藤勇も「薩摩者と勝負する時には初太刀を外せ」と言ったという。
島津久光を守っていた藩士なら、当然、薩摩藩でも指折りの剣の達人だったはず。
ということは、日本でも最強レベルの侍だったということ。
その薩摩者に斬られたイギリス人の死体はあまりにすさまじく、当時の日本にいた外国人を震え上がらせた。
これに対し、襲われた側のイギリスが黙っているわけがない。
薩摩藩に対して賠償を請求し、イギリス人を殺傷した藩士の引き渡しを要求した。しかし、薩摩藩がこれを拒否する。
そして薩摩藩とイギリスとの戦争に発展する。
世にいう薩英戦争のこと。
それは次回に。
横浜の生麦駅
今回の復習
・イギリスでミカンのことを何という?
・「1862年、薩摩藩の島津久光一行が江戸からの帰途、その従士が横浜近郊の
生麦で、イギリス人4人の行列への非礼を咎め、3人を殺傷した事件」とは何?
・「一撃必殺」と言われる薩摩藩の剣術を何という?
答え
・「Satsuma(サツマ)」
・生麦事件
・示現流
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