「世界は今夜終わった
その現実とは思えない荒廃の中で
トンネルは溶解し、通路には炎の門ができ、
崩れて張りぼてとなった家からセメントと煉瓦が崩れ落ちるなかで
一握りのぼんやりとした生き物が
壊滅した世界の断片を必死にかき集めている。」
クリストファー・ホルムの詩「ゲルニカ、1937年4月26日」にはこんな言葉がある。
これはスペインのバスク地方にある都市ゲルニカのことで、ドイツがそこを一夜で終わらせた。
*戦国時代に来日した宣教師フランシスコ・ザビエルはバスク人。
1937年4月26日、ドイツ空軍が都市への無差別爆撃、有名な「ゲルニカ爆撃」をおこなう。
焼夷弾が本格的に使用された世界で初めて空襲で、ゲルニカ爆撃は「史上初の都市無差別爆撃」や「史上初の無差別空爆」と呼ばれることもある。
日本人のボクにとってこれは世界史の教科書にでてくる出来事だけど、まえに海外旅行で知りあったスペイン人から、「オレのじいさんがゲルニカ爆撃を経験したんだ」という話を聞いて衝撃をうけたことがある。
ドイツ軍の爆撃機が飛ぶ音と炎の中、その人はケガをして動けない人間や地面に転がる死体を踏みつけて、何とか逃げのびて命だけは助かった。
「悪いことをした」と思ったのは爆撃が完全に終わったと確認したあとで、そのときやっと人間に戻ってきた気がしたという。
破壊し焼き尽くされ、全てが終わったゲルニカ (1937年)
作戦を指揮したリヒトホーフェン(右)はこう語る。
「250(部隊)は多くの家と水道を破壊した。焼夷弾がその威力を示す時が来た。瓦葺で木組みという建築構造は、完全な破壊をもたらした。・・・街路には爆弾の穴がまだ見える。素晴らしい」
このリヒトホーフェンは、バイクショップ「レッドバロン」のモデルとなった撃墜王リヒトホーフェンとは別の人。
トップ画像の絵はピカソが描いた作品「ゲルニカ」
世界的に有名な絵画で反戦や抵抗のシンボルとなった。
1950-1960年代のスペインでは、独裁政権に対する抵抗の印としてこの絵画の複製を飾る家庭が多く、バスク地方ではそれが特に顕著だった。
スペインのゲルニカ爆撃を日本でいうなら東京大空襲になる。
75年前のきょう、アメリカ軍の爆撃機が東京上空に飛来して無差別爆撃をおこなった。
1945年(昭和20年)3月10日、大量の焼夷弾を投下、東京を炎の地獄にして、この日だけで10万人以上が犠牲となる。
このとき東京にいた人も「世界は終わった」と思っただろう。
アメリカ軍の攻撃は日本の“弱点”について徹底的に研究して行ったものだったから、合理的で効果的で慈悲がなかった。
アメリカ軍は早くから江戸時代に頻発した江戸の大火や1923年の関東大震災の検証を行い、火元・風向き・延焼状況・被災実態などの要素が詳細に分析されていた。
日本家屋は木造が一般的。
そこが密集したところに、水でもなかなか消せない火をもつ焼夷弾を降りそそげば、そこは死体とがれきの山となる。
サイパンやグアムを飛び立った爆撃機はまず富士山を目指す。
そこから右へ行けば東京、左は名古屋だ。
東京を空襲するB-29爆撃機
空襲直後の隅田川と両国国技館(丸い屋根の建物)
東京大空襲のとき地上では、黒く焦げた死体が地面一面をおおい、人々は火の中を半狂乱で逃げまわっていた。
産経新聞の記事(3/10)に当時、女学校の2年生で弟を背負ってさまよった人の言葉がある。
焼け焦げた着物をまとった若い女性が「水をください」とはってきた。足をつかまれそうになり、思わずよけてしまった。女性の髪は乱れ切り、怖かった。
東京大空襲75年 「水をください」すがる女性から逃げた 今も頭離れず…東京の甚野年子さん
地面に転がる死体は「黒いマネキン」のように見えた。
炭化した四つんばいの死体は子供を守ろうとした親で、その下には小さな塊が見えたという。
「今なら涙を流せるのかもしれないが、何も感じなかった」という思いは、ゲルニカ爆撃を経験した人ときっと同じ。
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コメント
コメント一覧 (2件)
うーん、冒頭の画像はピカソのゲルニカですか・・・。
まあハッキリ申し上げれば、駄作と思います(とは言え、私ごときが世界の芸術家の作品に対してどうこう言うのも変ですけど)。少なくとも私の目には、あの作品は、単なる「マンガの落書き」と区別がつかない。もしも、作者ピカソが、ゲルニカの悲劇を訴えたくてあの作品を制作したのだとするならば、もうちょっと他の表現方法でもよかったんじゃないか。
あれだったら、水木しげるの方が上手に表現できるような気がします。
個人の印象は人それぞれですから。
私もあの絵だけを見ても価値は分かりません。
20世紀を代表する絵画ですけど。