外国人の言う「京都の禅宗のお寺は写真撮影フリー」は本当か?

 

きょねんの夏、次の年にコロナという悪魔が襲ってくるなんてまだ誰も知らなかったころ、東ヨーロッパのリトアニア人2人、ドイツ人1人、ベトナム2人の5人の外国人と一緒に京都旅行に行ってきた。

この中に三度の飯より旅行が好きというリトアニア人女性がいて、京都のどこに行きたいかたずねたら、彼女が「禅宗のお寺に行きたい」と言う。
それはゼンゼンいいけど、なんで浄土宗や真言宗とかじゃなくて禅宗なのか?

ワケを聞くと、彼女が京都についての海外メディアの記事を見ていたら、京都では写真撮影が禁止されていたり制限されているお寺が多いけど、禅宗のお寺では撮影が自由にできるという情報を見つけたと言う。
そういうことで、インスタ命の彼女は禅宗のお寺にたくさん行きたいと思った。

 

マジかっ。禅宗寺院では写真撮影が自由だなんてゼンゼン知らなかった!
でも、そう言われてここ10年ほどの京都旅行を振り返ってみると、確かに心当たりがある。

天竜寺、竜安寺、東福寺、建仁寺、源光庵などの禅宗寺院では自由に写真を撮ることができた。
でも清水寺、三十三間堂、祇王寺、東本願寺、広隆寺など禅宗以外のお寺では禁止や制限があった。

ただ写真撮影の基準は年々変わっていて、以前はOKでもいまはNGという寺もあるし、上の根拠は「オレの記憶」だから100%正確かどうかは保証できない。

でも自分の経験では、確かに傾向としては禅寺では写真撮影が認められている。
リトアニア人が海外メディアで見たという説はそう的はずれでもなさそうだ。
*京都観光についての海外メディアの情報は精度がイマイチ。
観光客がレンタル浴衣を着て歩いているだけなのに、「ここに行けば芸者を見ることができる!」と書いているケースもあった。

ひょっとしたら、禅の教義が写真撮影に影響を与えているかもしれない。

 

 

インド人僧・達磨(ダルマ)を開祖とする禅の教えは広くて深すぎるから、ここでは「不立文字」という大事な考え方を知っておこう。

不立文字とは、文字・言葉の上には真実の仏法がないということで、仏祖の言葉は解釈によって、いかようにも変わってしまうという意味であり、言語の持つ欠陥に対する注意である

だから「南無阿弥陀仏」と唱える浄土宗とは根本的に違う。

 

これは禅のお寺でよく見る「円相(一円相)」。
流れ続ける円の動きには始まりも終わりもない。
これは何ものにも捕らわれのない様子、執着から解放された心を表わしている。

 

 

「京都の禅宗のお寺では、写真撮影がフリーだった説」に興味を持ったから、事情通に聞いて広く意見を集めることにした。

まずは京都にくわしい人が集まるグループにこの質問を投下すると、こんな返信があり。

・我が国の寺院では仏像の撮影は宗教的理由で基本禁止です。街中のお地蔵さまですら撮影すると怒られる場合があります。

・宗派の問題ではなく、お寺の方針だと思います。ラーメン屋でもとんこつはOKで、醤油はNOと言ってるくらいのレベルの話で。お寺の方針、お店の方針の違いです。

・たとえば、仏像や襖などに関しては、宗教的な面もありますが、それ以外にも文化財保護の観点から撮影禁止とされることが多いです。

・禅宗のお寺は拝観料無料の所が多かった。禅宗は侍が多いときいています、その代わり花とかは、ほとんどない。石と砂だけの庭。悟りを開くためです。

・宗派は関係ないと思います。
要は観光客や撮影者のマナーの問題で、お寺側がどれだけ迷惑なのかという事だけかと

・花見小路かて昔は撮影は良かったんです。
マナーが悪いから禁止になったんです。

・それは外国人が多いです。結界の竹のバーを乗り越えたりもします。

・お寺は写真撮影のための施設ではありません。
先ずは参拝です。意味を取り違えないでください。

 

京都通の意見をまとめると、全体としてはこんな感じだ。

宗派は関係なくて、文化財保護や権利の問題で撮影不可になっている。
お寺としては善意で写真撮影を認めているのに、雑誌やパンフレットなどの商業用目的で使うケースがあって、中にはその写真を販売する人もいる。
金儲けに利用されるからことから、撮影をNGにした寺もあるとか。
さらには盗難防止の目的もある。
撮影については仏像やふすまなど建物内部はダメだけど、庭や寺の外観は問題ない。

観光客のマナー違反を指摘する人や最後のように、お寺で写真を撮るという行為に嫌悪感を持つ人が多かった。
ただ竹のバーだけを置いといて、「意味は察しろ」は外国人には通じないだろうけど。

写真撮影の是非は寺によってそれぞれ。
お坊さんや関係者に聞いても、「写真をSNSに投稿して多くの人がこの寺や仏像を知ってほしい」、
「撮影するかどうは拝観者の心にまかせる」、「うちでは内部は一切禁止」とお寺さんによって正解はそれぞれ違う。

 

次に仏教に関心のある人のグループに質問してみたところ、こんな返信が寄せられた。

・基本的には偶像がないからかな?
偶像が大事なら本仏を写真で写されて、その写真が粗末に扱われたら困るが、偶像主義でないなら写真をどう扱おうがその人の信心次第だから。

・正確な理由は知りませんが、私なりに考えると、それは禅宗という宗派に由来するのではないかと思います。
禅宗は自力本願ベースのストイックな宗派ですよね。
神仏は修行を通じて自己の中に発見するものであるから外形的なものはあまり重視していないという考えのような気がします。

・私も曹洞宗のお寺の座禅会に通わせていただいておりますが、住職は同じようなことをようおっしゃってました。

・静かで穏やかな心を「禅」と言います。
「禅宗」は、文字や理屈ではなく、釈尊の心を「以心伝心」によって今日まで伝承して来た宗旨です。合掌

・禅宗のお寺が仏像が少ないというのは、事実と思います。
多いのは密教系ですね。

 

宗派は関係ないという京都通の人とは違って、ここではその理由を禅宗の教えと結びつける人が多かった。
確かに禅のお寺には仏像(偶像)が少なかった記憶がある。(その代わりダルマの絵や円相が多い)
それなら写真撮影を禁止する理由もなくなるか。

前に禅寺の竜安寺を拝観したあと、タイ人から「仏像に手を合わせようと思っていたのですけど、見当たりませんでした。なんで仏像がないんですか?」と質問されたことがある。
タイ人の感覚では仏像のない仏教寺院はあり得ないらしいけど、ボクとしては竜安寺には枯山水があればそれでいい。仏像には関心がなくて気づかなかった。

駒澤大学の禅学科には、「元は偶像崇拝をしなかった禅宗ですが」とあるから、もともと仏像を置いて拝む行為は少ないのだろう。

 

今回見た意見では、禅寺のお坊さんのコメントが印象的だった。

・禅宗の主張=仏は誰のものにも非らず。
写真撮影をしたいならすればいいし、しないならしないで良い。
そんなことに捉われない。
何故なら、禅は全ての捉われから脱する方法であるからである。

娑婆世間の価値観や世俗的思考、現世の決まり事に我の求道する仏の真理はあらず。

我、只管、出世間の法を行じ奉る。

という主張が由縁になり、写真などに一々捉われません。

 

ごもっとも。
拝観者が写真を撮るかどうかが気になる、そんな俗世の些事に心が執着するのは禅の教えからすると間違いだと思う。

ということで今回の結論。

(京都に限らないけど)禅宗のお寺では写真撮影がフリーという外国人の説はわりと正しかった。

 

 

こちらの記事もいかがですか?

インド 「目次」

宗教 「目次」

【ヒンドゥー教と神道】インド人が天照大御神で驚いたこと

日本人にも人気!タイのパワースポット。ピンクのガネーシャ像

インド人、日本人に怒る「仏教徒がクリスマス祝ってんじゃねえよ!」

タイの徴兵検査に美人すぎるニューハーフ!お祭り騒ぎに。

インド人を日本のお寺へ①きっと喜ぶ菩提僊那と奈良の大仏の話

 

コメントを残す

ABOUTこの記事をかいた人

今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。