山紫水明、ボクの住む美しい静岡県には「越すに越されぬ大井川」がある。
そんな駄文から始まった前回の記事では、江戸時代に大きな川に橋がかけられなかった理由について書いた。
でも本当に書きたかったのは、富士山とお茶で有名な静岡のこと。
(ゴメンよ山梨。でも、青木ヶ原樹海とゆるキャン△は君たちのものだから。)
なんで静岡県は日本一のお茶どころになったのか?
これからその理由を書いてきますね。
「茶」の北京の発音から「チャ」、福建の発音から「ティー」になった。
これ豆ね。
江戸時代、軍事的な理由によって幕府は大きな川に橋をつくることを禁止していた。
それで江戸から京都までの東海道の難所として、「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」と言われるようになる。
橋のなかった当時の大井川で、対岸に行きたかったら人(川越人夫)にかつがれるか、馬の背に乗って浅瀬を渡るしかない。
雨が降って増水すれば水が引くまで待つしかなくて、大井川では28日間も「川留め」(渡河禁止)が続いたという記録もある。
そんなことで、越したいけど越せてくれない大井川は通行人から嫌われていたと思う。
当時は大井川の深さを毎日はかっていて、水深が川越人夫の肩の高さまであると渡河禁止となった。
人夫は東の島田に360人、西の金谷に360人が常に待機していて、幕末になるとそれが約650人に増えたという。
彼らは身分の公務員(下級役人)で、川渡しはわりと安定したいい仕事だったのだろう。
それに通行人が東海道を行き来する限り、需要は決してなくならない。(と思ったころもありました)
川越えの料金は一応定額だったけど、十辺舎一九の「東海道中膝栗毛」には弥次さん・喜多さんが値段交渉をする場面があるから、実際には応相談でぼったくりもあったんでしょ。
増水して川留めになると旅行者はもうお手上げ。
自然が相手では何もできないから、許可が下りるまで島田か金谷に滞在するしかない。
だからそうなると、両宿場町の宿や料理店はかなりの稼ぎが期待できる。
だから大井川に橋をかけなかったのは、島田・金谷の人たちが自分たちの利益を守るためだったという指摘もあるのだ。
しかしそんな甘い生活も、江戸幕府崩壊とともに終了する。
明治時代になると、通行人を肩にかついで渡るという江戸スタイルは廃止されて、大井川に渡し舟や橋が登場した。
大井川にかかる世界一長い木造の橋・蓬莱橋
これで川越人夫や川留めによって儲けていた人たちが、一斉に路頭に迷うこととなる。
でも、捨てる神あれば拾う神あり、禍を転じて福と為せ!で、これが「日本一のお茶どころ」という現在の静岡県の名声につながった。
毎日新聞のコラム「余禄」(2020年7月26日)
明治に入ってから、渡船や架橋に伴い、大井川の人足らは大量失業した。転業して茶畑を開墾したことが、今日の静岡茶につながっていく
静岡県を流れる大井川は江戸時代も…
ときは流れて現在ではコロナ拡大によって、失業の危機を迎えている人が日本中(いや全世界)でいる。
時代は違うし「他人ごと感」もぬぐえないけど、発想を変えて逆境を抜け出した人たちもいるのだから、何とか切り抜けてほしい。
葛飾北斎の浮世絵
ただし、ローマは一日にして成らず。
静岡でお茶が有名になった理由は、大量失業からのお茶農家への「一斉ジョブチェンジ」だけではなくて、江戸時代には御用茶が駿河から江戸の将軍家へ届けられていたといった歴史もある。
これ以上のくわしい情報はここを見てくれ。
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>「茶」の北京の発音から「チャ」、福建の発音から「ティー」になった。
>これ豆ね。
???
1行目と、2行目のつながりが全然わかりません。「これ」って、どれ?
もしかして「豆知識」の意味ですか?