「海賊王」がルフィまら、発明王はエジソン。
ちびまる子ちゃんに言わせると、きっと「そんなの常識」。
1847年にアメリカで生まれ、その生涯を発明にささげたエジソンは、1300もの新しいモノを世にうみ出したことや「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」といった名言で知られている。
きょう12月6日は、1877年のこの日にエジソンが発明した蓄音機で、録音と再生に成功したことから「音の日」になっている。
エジソンが作った蓄音機も電話機もスゲーのだけど、人類にとって画期的な発明は世界の夜を昼に変えた「電球(白熱電球)」だろう。
と言いたいところなんだが、白熱電球を発明したのは実際にはイギリスの物理学者のジョゼフ・スワンだったりする。
ただジョゼフの開発した電球の点灯時間はとても短くて、地上に出てきたセミの寿命以下で、NTTファシリティーズの「エジソンと日本の意外な関係」によると1分間だけ。
しかも、その電力供給には太い銅線を必要していたから不便なこと山のごとし。
この欠点を克服して、安定性の高い実用的な電球を作り出したのがエジソンだから、一般的には彼が「電球の生みの親」と言われている。
でも、日本人としては知っておきたいのはそれだけじゃなく、エジソンにナイスアシストをした「京都の竹」だ。
人名じゃなくてこっちの竹
長時間光りつづける電球を開発するため、エジソンは紙や植物の繊維などさまざまな材料で試行錯誤しながらフィラメントを作っていた。
電球の試作で使った植物の種類は6,000種類以上というから、彼の探求心は並ではない。
でも、どうしても良い材料を見つけられなかったある日、エジソンは研究所にあった扇子の骨で試してみたところ、これがビンゴで大当たり。
繊維が太くて丈夫な竹は、長持ちするフィラメントを作るには最高の素材で、竹からできた扇子の骨を使って電球を作って試したところ、その光はなんと200時間もつづいたのだ。
「答えは竹だっ」と気づいたエジソンは最適の竹を手に入れるため、世界中から1200種類の竹を取り寄せて試作品作りに没頭する。
最高の素材を手に入れるためにエジソンが海外へ派遣したメンバーの1人、助手のウィリアムが1880年(明治13年)に日本の京都へやって来た。
そして京都府知事から「それなら良い竹がありますよー」と、八幡の真竹を紹介されたウィリアムはそれをアメリカのエジソンへ送る。
八幡の真竹は引き締まった繊維が特徴で、日本では工芸品や刀剣のとめ具で使われていた。
京都・石清水八幡宮の真竹を使って白熱電球を作ると、その光は世界中のどの竹よりも長い1000時間以上も輝きつづけた。
エジソンは日本の竹を素材に電球を作って商品化すると、これが世界中で大ヒットし、フィラメントを別の素材にするまでの約10年間、エジソンは八幡の竹を使いつづける。
とうことはこの間、京都の竹が世界の夜を明るくしていたわけだ。
1931年10月18日、84歳でこの世を去ったエジソンはまさに仕事の鬼。
普段の睡眠時間も30分ほどの仮眠を1日数回、合計3時間ほどしか取らず、ほぼ24時間体制と言ってよいスケジュールで仕事を続けていたため、「エジソンの研究所の時計には針がない」とまで噂されたほどであった。
「世界の発明王」の名誉はこうした努力のたまものだけど、発明の権利を断固守るために何度も訴訟を起こしたことから、エジソンには「訴訟王」とも呼ばれた。
竹を通じてエジソンとつながった石清水八幡宮には現在、上の「エジソン記念碑」がある。
くわしいことは石清水八幡宮のホームページを。
エジソンの令嬢スローン夫人は昭和39年に当宮を訪れ、「これほど立派な記念碑はアメリカでも見たことがない」と感激されました。
日本に数十万ある神社の中でも、アメリカ合衆国の国旗が掲揚されている神社はここだけ。
おっと。
エジソンと日本ということなら、忘ちゃいけない人がいたぜ。
彼の唯一の日本人助手で、「自分の子供たちはしょっちゅう自分の周りから金品を勝手に持ち出していくが、この日本の青年はテーブルの上にお金が置いてあっても、手をつけることなど全くない」とエジソンから信頼された岡部 芳郎(おかべ よしろう)という人物がいた。
岡部 芳郎(1884年 – 1945年)
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