【ただ悔しい】会津と長州の遺恨、新資料発見で終わりになるか

 

毎日いろんな記念日のある日本では、1月21日は「ライバルが手を結ぶ日」になっている。
いやいや、どんな日だよ。
と思ったら1866年のこの日、それまで憎みあっていた長州と薩摩藩が坂本竜馬の仲介で京都で話し合い、倒幕のために薩長同盟が成立したことにちなんで、この記念日が成立したらしい。

そしてきょう2月19日といえば、太平洋戦争での最大の戦いのひとつ、硫黄島の戦いがはじまった日じゃないですか。
1945年のこの日に日米がこの島で激突し、日本軍で約2万人、米軍で約7千人の犠牲者がでた。
でも1985年2月19日、硫黄島で日米双方の元軍人・退役軍人らによる合同慰霊祭が行われ、かつては敵同士だった日米の参加者が抱き合って涙を流したという。
くわしいことはここをクリック。

硫黄島の戦い・戦後 

ということで2月19日も「ライバルが手を結ぶ日」には最適だ。

 

さて長州・薩摩、日本・アメリカは終わったのだけど、福島県の会津と山口との和解はまだらしい。
幕末の戊辰戦争で、薩摩・長州を中心とする新政府軍に攻められた会津では、いまでも山口(長州)に対して憎しみを持っている人が多いという。
ちょっと前に記事でそのことを書いたところ、

【対立の歴史】ベトナムの南北関係、日本の会津と山口

こんなメッセージをいただいた。

・山口出身です。
ついこの間まで、会津は恐くて旅行できませんでした。
行ってみると意外と嫌なこともなく。

・父方が会津の福島県人です。
確かに、古い杉並木や旧家の柱に弾痕や刀傷がまだ残っていたりもします。
そして、数十年前には山口県の人との結婚を反対されたとか、戊辰戦争を「この間の戦」と言っているご老人もいたと聞いています。
でも、若い人たちはもう、そういった確執を意識しなくなっているように思います。

 

攻撃を受け破壊された会津若松城

 

どこまでホントか不明ながらも、ネットでは会津の人によるこんな書き込みもある。

・商談相手が山口県出身者だと、それだけで商談が破談する。
・山口県の青年会議所かなんかと交流会が開かれているが、夜の飲み会になると決まって喧嘩が始まる。
・テレビで「ユダヤとパレスチナが2,000年も戦っているのに、我々はまだ100年ちょっとだ。仲直りなどありえん!」という趣旨の事を言っていました。

会津と長州の確執についてはここを見てほしい。

2016年の報道によると、親から「長州の男との結婚だけは絶対に許さん」と言われ続けて育った子供が会津地方にはおり、

会津戦争・戦後処理

 

ただ会津人の長州憎しの感情はときに行きすぎる。
会津を通る国道が縁起の悪い「49」にされたのは、明治時代の長州の嫌がらせだと信じている人がいるらしい。
でも国道49号が誕生したのは1963年だから、この話は完全なでたらめだ。
でも、そんなことが信じられてしまうほど、山口に激しい感情を持つ会津人がいるということだろう。

 

 

上の「柴五郎」は子どものころに地獄を体験した。
会津戦争で新政府軍が会津にやって来たとき、祖母、母、姉妹は集団自殺してこの世を去った。
80歳を超えた柴五郎が当時を振り返ってこう書いている。

父母兄弟姉妹ことごとく地下にありて、余ひとりこの世に残され、語れども答えず、嘆きても慰むるものなし。(中略)非業の最期を遂げられた祖母、母、姉妹の面影まぶたに浮びて余を招くがごとく、懐かしむがごとく、また老衰孤独の余をあわれむがごとし。

「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書 (中公新書) 石光真人 編者」

 

いまでも長州に恨みを持つ会津人がいるのは、こうした「非業の最期を遂げられた」多くの先人がいて、その無念を忘れていないから。
少年兵で集団自殺した白虎隊の存在もある。
この戦争のあと捕虜なって、東北の寒村に飛ばされた柴やほかの会津人は「まことに乞食にも劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に蓆を張りて生きながらえし辛酸の月日」を過ごしたとある。

このほかにも戦争が終わった直後、薩長は死者の埋葬を禁止したから、遺体が野ざらしにされて会津人の怒りや恨みは骨の髄まで浸透したという。
でも最近になって、じつは遺体を埋めていたという記録が出てきたことから、その説は間違いである可能性が高いことが判明。

それをうけて元会津図書館長の野口信一さんが朝日新聞の記事でこう語る。(2017年10月4日)

長州藩など西軍の非道ぶりを象徴するものとされていた。野口さんは「長州への怨念の最大の要因が取り除かれた。これを機に友好関係を築いてもらいたい」と話している。

戊辰戦争、会津の遺体放置なかった?長州への怨念の要因

 

会津戦争後の埋葬禁止説は「国道49」と同じく間違いだった予感。
あの戦争が遠い記憶となった柴五郎はこう語る。

時移りて薩長の狼藉者も、いまは苔むす墓石のもとに眠りてすでに久し。恨みても甲斐なき繰言なれど、ああ、いまは恨むにあらず、怒るにあらず、ただ口惜しきことかぎりなく、心を悟道に託すること能わざるなり。

「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書 (中公新書) 石光真人 編者」

 

およそ80年たったこのときの柴にはもう、薩長への恨みや怒りはなく、やり場のない悔しさだけがあった。
歴史を忘れていけないが21世紀のいまなら、恨みも怒りも悔しさも水に流してもいいころでは?
静岡県民のボクが言うのもなんだが、あの時代を生きた人たちは「ことごとく地下にありて」、もう遺恨を望んでいないだろう。
長州・薩摩、日本・アメリカに続いて、日本史上最大の「ライバルが手を結ぶ日」は近いかもしれない。

 

会津では長州藩士をやっつける祭りが毎年おこなわれている。

 

 

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3 件のコメント

  • > 2016年の報道によると、親から「長州の男との結婚だけは絶対に許さん」と言われ続けて育った子供が会津地方にはおり、
    > 会津を通る国道が縁起の悪い「49」にされたのは、明治時代の長州の嫌がらせだと信じている人がいるらしい。

    へぇ、今でもそんな人がいるんですか?

  • 会津出身ですが、今時そこまで恨んだり憎んだりしてる人は少ないと思いますよ。
    多分、「信長の野望」プレイする時に地元の武将贔屓して、敵対した武将や出身地域を敵視したり、そういった程度かと。
    ただ、そういった地元意識は都会に比べると強めかなとは思いますが。

    歴史物のドラマとかで戊辰戦争物が取り上げられる度に、過去のそういったエピソードが掘り返されるせいで「連綿と続いている」イメージになってしまうのだと思います。

  • 個人的な話になると人それぞれでしょうね。
    1986年に萩市が会津若松市に「もう120年も経ったので」と、会津戦争の和解と友好都市締結を申し入れましたが、会津若松市側は『まだ120年しか経っていない』と拒絶しました。
    早く友好都市になれることを願ってます。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。