【中国と日本の恩人】国民を飢餓から救った袁隆平・並河成資

 

5月22日のきょう、ある中国人がSNSでこんな投稿をしているのを発見。

「袁隆平先生は、今日北京時間13時07分、ご逝去されました。黙祷
袁隆平先生のおかげで、中国の食糧が自給自足になりました。中国は建国後間も無く発生した大自然災禍を乗り越えて、国の運命を書換えました。合掌。」

そうか、あの袁氏がきょう亡くなったのか…。
で誰それ?と思って調べてみたら、袁 隆平(えん りゅうへい:1930年 – 2021年)とは中国の農業学者で、人生をかけてハイブリッドイネの研究や普及をおこなった人。
彼のおかげで、中国人は食べ物に困らなくなった。

大飢饉によって多くの死者が出たことに心を痛めた袁は、餓死者を無くしたい一心でイネの品種改良の研究をはじめ、ついに「南優2号」というイネの品種の量産に成功する。
このイネはたくさんのお米がとれるスグレモノ。
そのころの中国では袁隆平と鄧小平の「二つの平」によって、国民はご飯を食べられるようになったと言われた。
飢餓や餓死の苦しみから多くの国民を救った袁隆平は、農学者であり菩薩のような人物だ。
袁がいなかったら、中国が世界最大のコメ生産国になることはできなかったはず。
「袁隆平先生のおかげで、中国の食糧が自給自足になりました」と国民が感謝するのも当然の偉人。

 

袁隆平

 

日本でこんな人物を探すとしたら、並河成資(なみかわ しげすけ:明治30年 – 昭和12年)できまりっしょ。
1931年(昭和6年)に並河が「農林1号(水稲農林1号)」というイネの品種を生み出した瞬間、日本の米の歴史は一変した。
この品種は味が良くて、多くの収穫量を期待できるし、耐冷性があるから東北や北陸などの寒冷地にも適していた。
農林1号からコシヒカリやササニシキがうまれたのだから、この米がどれだけ画期的だったかわかるだろう。

 

昭和5~6年の農業恐慌では、東北・北海道地方が冷害により、農作物がまったくと言っていいほどとれなかった。
いまの日本では考えられないが、大凶作にみまわれた東北では一家の餓死をまぬがれるために、10代の女の子が都市部の日本人に売られていった。

 

これは農業恐慌のときの写真
「娘を売るときは相談を」と役場が村民に呼びかけている。

 

その時代を生きた評論家の山本七平氏は、並河成資が育成した農林1号についてこう書いている。

これによってどれだけ多くの人が救われたかわからない。それは単に東北の農民を冷害から救っただけでなく、戦中戦後の食糧事情の苦しいとき、多くの人を飢餓や栄養失調から救った。「農林1号」は、ある意味では何よりも貴い資産であり、その後の品種改良の第一歩であった。

「昭和東京ものがたり (山本七平)」

 

素晴らしいイネの品種をつくり出し、多くの国民を飢餓地獄から救ったという点で、中国の袁隆平と日本の並河成資は両国の救世主と言える。
でも、知名度がまったく違うような気がしてならん。
ササニシキやコシヒカリを食べる日本人なら、並河成資(なみかわ しげすけ)の功績をもっと知るべき。
「並河先生のおかげで、日本の食糧が自給自足になりました」と言っていい恩人だ。

 

 

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3 件のコメント

  • >中国は建国後間も無く発生した大自然災禍
    これ人災じゃないの?

  • > これは農業恐慌のときの写真
    > 「娘を売るときは相談を」と役場が村民に呼びかけている。

    現代の若い人達にも日本語の意図が正確に伝わるよう、注意して現代語へ翻訳すべきですね。
    「娘を売ろうと考える前に、まず相談を」と翻訳すべきだと思います。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。