昨年11月、日中韓3カ国の首脳によるテレビ会議で、文大統領がこうよびかけた。
「日本の菅首相、お会いできてうれしいです」
「日本には二度と負けない!」と強硬姿勢を見せていた文大統領が態度一変、ここまでの親日っぷりを見せたことで、日韓のメディアが驚いた。
文大統領はそのときの最善の利益によって動くから、反日か親日かは損得で使い分ける。
このときは笑顔を見せたほうが得だと判断したわけなんだが、そうならざるを得ないほど、韓日関係を悪化させたのはそれまでの文大統領の反日的言動だった。
国民の支持を得るために文政権が反日を政治利用してきたことは、このとき韓国の大学教授も指摘している。
韓国経済新聞/中央日報日本語版(2020.11.15)
政界が作り出した反日フレームに国民がとても簡単に誘惑されたためだ。土着倭寇と竹槍、義兵というキーワードでわかるように、政府と与党は国民の反日感情を利用して政治的利益を得てきた。しかしこうした異常な韓日関係をこのまま継続させることはできない。
竹槍と義兵の「ポピュリズム」の限界…韓日「シジフォスの岩」破らねば
「異常な韓日関係」が負担になっていたし、アメリカでバイデン新大統領が誕生したことも、文大統領にとっては日本との関係改善をあせらせる要因になったはずだ。
とはいえ、「盗人猛々しい」から「お会いできてうれしいです」では変わり身が早すぎる。
言われた菅首相も「お、おおっ」と戸惑ったのでは?
このときから約半年が過ぎた昨日、韓国の裁判所がどんでん返しの判決を言い渡す。
日本の統治時代、”強制徴用された”と主張する韓国人とその遺族が日本企業に損害賠償を求めた訴訟で、ソウル中央地裁は原告の訴えを却下した。
これと同じ内容の訴訟で2018年に最高裁は日本企業に賠償を命じたから、今回はこれと180度反対の結果となる。
こんなことは異例中の異例で、「前例のない司法混乱」と表現した韓国メディアもあるほどだ。
でも、この混乱の“フラグ”ならことし1月にあった。
文大統領が新年の記者会見で元徴用工訴訟問題について、原告側によって日本企業の資産が「現金化されるのは韓日関係に望ましくない」と述べた。
また日本政府に賠償を命じた元慰安婦訴訟については、「外交的努力をしている間に慰安婦判決問題が加わり、正直困惑している」と言う。
文大統領はそれまでずっと司法判断を尊重するとくり返し言っていたのに、初めて現金化を嫌がる態度を見せた。
このとき大統領が韓日関係の悪化で行き詰っていたのは明白。
その流れでこうした“弱音”を吐いたことで、その後の元慰安婦・徴用工裁判では原告側に厳しく、日本寄り(国際法を尊重するとそうなるのだが)の判決が下るのでは?という予測はネットでもチラホラあった。
だから今回の判決は、1月に立てたフラグを回収した結果となったわけだ。
それに対し朝鮮日報は「選挙用反日の必然的な結果」と社説で厳しく批判する。
最高裁の判決を地裁が否定するような前代未聞の司法混乱を招いたのは、過去を政治的に利用してきた文政権にある。文大統領が反日で外交を破綻させ、国論を分裂させたとかなりのお怒りモードだ。
朝鮮日報が言っていることは半年前に、「政府と与党は国民の反日感情を利用して政治的利益を得てきた」と大学教授が指摘したことと変わらない。
今回の判決には原告や弁護士はもちろん、多くの国民も怒りに震えていてその批判は政府に向けられている。
この逆転敗訴の裏には、政府の意向があることは誰だって感じているはず。
「選挙用反日」によって支持してきた国民にしてみれば、文大統領のここ最近の変節は裏切りでしかない。
でも、「日本の菅首相、お会いできてうれしいです」というリップサービスぐらいで日本が韓国に譲歩するわけもない。韓国による国際法違反の状態は何も変わっていないのだから。
支持者を怒らせて日本からは距離を置かれ、文大統領にはいろんなツケが一気に回ってきたようだけど、すべては自分発、身から出た錆。
目の前の利益を優先して国民感情を利用してきたのだから、「異常な韓日関係」になるのは必然だった。
これを正そうとすると、今度は国民感情を傷つけるのも必然。
文大統領が次は反日か親日のどっちをチョイスするのか知らないけど、まあがんばってこの苦難を乗りこえてください。
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韓国の国民請願で、あの判決を出した判事を「弾劾すべき」が10万人を超えたそうですよ。
いやはや、どういう仕組みか知らんが、票数さえ集まれば誰でも弾劾訴追できるとなれば裁判官なんぞやっとれんですね。韓国国民を誤った情報で洗脳してきた教育、メディア、政治家の罪は重い。
このような運動が拡がってしまうのも、韓国人達の「好み」に合ったデマ情報が拡散するからです。
> 韓日「シジフォスの岩」破らねば
ギリシャ神話「シーシュポスの岩」とは、神様を騙した罪で冥界に落とされ、重い岩を持ち上げて坂の頂上まで運ぼうとするも、頂上到達の直前でいつも転げ落ちてしまい、また最初からやり直す、その苦行を永遠に繰り返すという寓話です。
韓国にしては、奇妙なたとえ話を持ってくるなぁ?と思っていたら、最近Netflixで「シジフォスの岩」という韓国ドラマが始まっていたのですね。その宣伝に乗っかったものか。
しかし、「シジフォスの岩」を「破らねば」とは、神話で不可能とされている話を持ち出すなんて、何と言うか「本気で破る気があるのか?」と疑ってしまいますね。(実際、本気じゃないのかも?)
日本人の感性とは違うなぁ。
おそらく日本人だったら、「常に徒労に終わる『シジフォスの岩』であっても、努力し続ける過程・その意思に意味があるんだ」などと、このエピソードを使うのではないでしょうか?