2021年の6月20~26日は「ハンセン病問題を正しく理解する週間」という大事な7日間になっている。
これは「らい菌」に感染すると起こる病気で、1873年にこの菌を発見したノルウェーの医師アルマウェル・ハンセンにちなんでハンセン病と呼ばれるようになった。
人類とこの病気との付き合いはおそろしく長い。
4000年ほど前のエジプト、中国、インドでハンセン病についての記録があるし、日本では8世紀に成立した日本書紀に「白癩(びゃくらい:ハンセン病のこと)」が記されている。
ハンセン病が人々から忌避されたのは、皮膚が侵(おか)されるから。
病気によって顔・手・足の形が変わってしまうため、患者が偏見や差別の対象となることは世界的にあった。
例えばこれは中世のフランスで起きたこと。
十四世紀前半のある年代記には、ハンセン病患者がフランスのほぼ全域で焼き殺されたとある。また別の年代記によると、フランス王国全土でハンセン病患者が牢に入れられ、その多くが火刑に処された
「魔女狩り (河出書房新社) 黒川正剛」
ハンセン病患者だから。
それだけの理由で、生きたまま焼き殺す蛮行はヨーロッパ各地で行われていた。
ノルウェーのハンセン病患者(1886年、24歳)
範囲はよく分からないが、ヨーロッパではハンセン病患者が外を歩くときは、鈴などを鳴らさないといけなかった。
その存在を知ることで、市民は彼らを直接見ないように避けたのだろう。
特徴的な外見から、日本では神や仏によって断罪された、または前世で犯した罪の因果を受けた結果と考えられていて、「天刑病」と呼ばれたヒドイ時代もあった。
近年までは「癩(らい)病」とも言われていたが、いまでは「ハンセン病」が一般的。
豊臣秀吉の家臣だった武将・大谷 吉継(おおたに よしつぐ)はハンセン病にかかっていたと言われ、崩れた顔を隠すために白い布で覆っていたという話がある。
ハンセン病患者に対する昔の日本人の見方について、くわしいことはここをクリック。
江戸時代にはこの病になると家族が患者を四国八十八ヶ所や熊本の加藤清正公祠などの霊場へ巡礼に旅立たせた。このためこれらの場所に患者が多く物乞をして定住することになった。
ハンセン病になると仕事ができなくなって家の奥座敷や、農家の離れ小屋で人目を避けて暮らすことがあったし、家族の迷惑になるからと放浪の旅に出る、いわゆる「放浪癩」という人もいた。
1931(昭和6)年になると、大正天皇の皇后で昭和天皇の母親だった貞明皇后(ていめいこうごう)の下賜金をもとに「癩予防協会」が設立される。(このときは皇太后)
ハンセン病患者の救済を願い、力を尽くした貞明皇后にちなんで、その誕生日である6月25日のある週が「ハンセン病を正しく理解する週間」となった。
これには、ハンセン病患者の皮膚に直接口をあてて、その膿(うみ)を吸い出したという奈良時代の光明皇后の伝説の影響もあったはず。
これについて別の機会に書こうと思う。
しかし、「癩患者を慰めて」という題で「つれづれの友となりても慰めよ 行くことかたきわれにかはりて」(ハンセン病患者の友となって慰めてほしい 行くことが困難なわたしに代わって)という歌を詠んだ貞明皇后の思いと現実は離れていく。
貞明皇后
1931年に下賜金を基に渋沢栄一を会長として「癩予防協会」が発足し、ハンセン病患者を日本からなくす動きが本格的に始まった。
でもそれは患者を治療して社会復帰させるのではなくて、むしろその逆、患者を見つけては強制的に療養所へ送り込むものだった。
そこでは、子どもを生めないよう断種手術を強制された患者も多くいた。
皇室の名が利用され、「無癩県運動」というこの差別的政策が実行されていく。
一般市民によるハンセン病患者の監視制度でもあり、周囲に隠れ暮らしているハンセン病患者を市民が発見した場合、警察などへ通報して患者を強制収容することを奨励する運動だった。
まるで犯罪者や害悪のように社会から患者を排除したり、患者の家は真っ白になるほど消毒するなどして、ハンセン病は「国の恥」、「恐ろしい病気」という差別的意識を国民に植え付けた。
無癩県運動によって、ハンセン病患者に対する日本人の差別や偏見が形成されたという指摘もある。
医療技術の進んだいまの日本でこの病気を心配する必要はない。
問題は体ではなくて心のほう。
元ハンセン病患者やその家族には、今も偏見や差別に苦しんでいる人がいる。
もう「らい菌」は関係なく、これは人権問題、心に差別という病気を感染させる悪性ウイルスとの戦いだ。
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