【強欲の魔女・西太后】日清戦争で中国が日本に負けたワケ 

 

「絶対に負けられない戦い」

この言葉は現代では、サッカー日韓戦やスポーツの国際大会での重要な試合で使われるあおり文句だ。
でも100年ほど前、日本の明暗を決定的に分けるそんな重要な戦いがあった。
そのひとつが日露戦争で、もうひとつが近代日本が初めて迎えた試練、1894年~1895年の日清戦争だ。

日本がこの戦いに勝ったことは、いまなら誰でも小学校の歴史の授業でならうはず。
でも、その結果を知らなかった当時の日本人は固唾をのんで状況を見守っていて、日本勝利の知らせを聞いた福沢諭吉は男泣きした。

日清戦争など官民一致の勝利、愉快とも難有いとも云いようがない。命あればこそコンな事を見聞するのだ、前に死んだ同志の朋友が不幸だアヽ見せて遣りたいと、毎度私は泣きました。

「福翁自伝 (福沢 諭吉)」

 

当然、当時の中国人はこれと正反対の意味で泣くことになる。
10年ぐらい前、日露戦争の激戦地・大連へ行った時にお世話になった現地の日本語ガイドは、

「あの勝利で日本は中国から賠償金を得て、さらに国力を増強させて日露戦争で勝利しました。一方、中国はあの敗戦でさらに一層没落して、欧米列強の半植民地状態におちいりました」

と残念そうに言っていた。

これはその通り。
この戦いによって列強は日本の力を認め、日本の国際的地位は上昇して、さらに国を近代化させることもできた。
現在の価値観から100年以上前の弱肉強食の国際常識にツッコんでも意味はないし、もし日本が日清戦争で負けていれば立場は逆転していたはず。

でも、この「絶対に負けられない戦い」で日本が勝った大きな理由に、「西太后のナイス・アシスト」がある。
「真に恐れるべきは有能な敵ではなく、無能な味方である」とナポレオンが言ったように、無能でさらに有害な人物が国のトップにいたら、どんなに強大な帝国でも内側から崩壊するのは必然の運命。
日清戦争のころ中国には光緒帝という皇帝がいたものの、実質的に支配していたのは西太后という“女帝”で、彼女が国を内側からむしばんでいった。
彼女は無能というよりは“強欲の魔女”だ。

 

西太后(1835年 – 1908年)

 

「朕は国家なり」

これはフランス国王ルイ14世が言ったとされる、絶対主義王制を象徴する言葉として有名だ。
「太陽王(le Roi Soleil)」と呼ばれた彼が、ヴェルサイユ宮殿を建設したまではよかった。でもこれに加えて、アウクスブルク同盟戦争(ファルツ戦争)やスペイン継承戦争などを戦ったことでフランスは深刻な財政難におちいり、国民は疲弊する。
そのツケを払わされのがルイ16世で、この時代にフランス革命が起きて彼はギロチンで首を飛ばされた。

 

”ドラゴン・レディ”の西太后も「朕は国家なり」とばかりに、国を私完全に物化していた。
民の血と汗の結晶である税金を納めた国庫を、西太后は自分のATMのように考えて、好きなように金を引き出していた。
でも、使うべきところでは使わない。
1870年代に天候不順が原因で大飢饉が発生したとき、民間では各地で救援活動があったというのに西太后はこれを放置。
政府に見捨てられた結果、1000万人以上の国民が餓死するという清の歴史上最悪の被害を出す。

この約10年後、西太后は自分が住んでいた清漪園の再建を命じる。
そしてばく大な費用と約10年の時間をかけて完成すると、彼女は清漪園から「頤和(いわ)園」に名前を変えた。
この邸宅を作り変えるために要したカネは、日清戦争の総費用の約3倍といわれる。
建設予算が足りなくなると西太后は、清朝が誇る北洋艦隊(1888年に編成された艦隊で日本海軍を上回るアジア最大の艦隊)の予算を大幅にけずって頤和園へまわした。

このこと以上に大連のガイドが怒っていたのは、西太后のバースデーパーティーだ。
彼女の60歳になる大寿を祝う祭典で使ったカネだけで、日清戦争の総費用の2倍以上という。
このように民の税を湯水のように使う一方、自分の権力を守るために多くの人間を殺した。
光緒帝が愛した妻(側妃)の珍妃(ちんぴ)を、生きたまま井戸に投げ込んで殺したのも彼女だ。
中国三大悪女」の一人に数えられる西太后はまさに“強欲の魔女”。

本来なら北洋艦隊や国力増強のために使われるはずだった国金を、西太后は個人的な目的で好き放題浪費してしまったことが、日清戦争での大きな敗因となったとガイドは怒りながら話す。
このときの建設費用と戦費の負のコンボが1911年の辛亥革命を招く要因になったのだから、この点でも西太后はルイ14世と似ている。

でも後者はまだいい。
ユネスコ世界遺産に登録されている頤和園は、国の内外から多くの観光客が集めて国の役になっているけど、誕生日祝いは西太后の虚栄心を満たしただけで、現在では何の利益も生み出していない。
だからガイドは、西太后が国の金を軍ではなく、自分の家や庭のために使ったことのほうが許せない。

そうは言われても、こっちは知らんがな。
それが歴史なのだから。
ただ西太后の浪費は、「絶対に負けられない戦い」での日本の勝利には確実にプラスに働いた。
そう思うとこのとき日本の君主が、強欲の正反対にいる明治天皇だったのは超絶ラッキーだったといえる。
もし西太后が日本に生まれていたら、そんな壮大なハンデを抱えていたらきっと中国には勝てなかった。

 

*中国東北部(満州)の現地ガイドは日清・日露戦争の歴史についてよく知っている。
大連のガイドが言うには『坂の上の雲』の影響が少なくなって、最近は日本人観光客が減少中。
この戦争についての中国人の視点も面白いから、興味のある人はぜひ東北部に足を運んで日本語ガイドの話を聞いてみよう。

 

 

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1 個のコメント

  • > そしてばく大な費用と約10年の時間をかけて完成すると、彼女は清漪園から「頤和(いわ)園」に名前を変えた。
    > この邸宅を作り変えるために要したカネは、日清戦争の総費用の約3倍といわれる。

    西太后って、先帝の側室ですよね。なんでそんな贅沢が許されたのかな?
    国を上げての戦費の3倍を費やす贅沢って、ちょっと想像もつきませんね。ま、そんな贅沢を「妾」の分際でyるされるなんて言う状況が、西太后本人だけでなく、当時の政権中枢も腐っていた証拠でしょうね。
    「西太后の贅沢が国を滅ぼした」という見解も、ただ単に彼女一人へ責任を押し付けたいだけの、言い逃れのように感じられます。
    日本じゃあり得ませんよ。たとえ後醍醐天皇や織田信長が独裁しようとしても、すぐに周りが反乱を起こしてクーデターですから。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。