10月10日は「ジュー・ジュー」(鉄板の上で焼く音)ということで、オタフクソースが制定した「お好み焼の日」だ。
お好み焼きの歴史は古い。
安土桃山時代に千利休が作らせた、水に溶いた小麦粉を鉄板の上で焼いてサンショウ、みそ、砂糖で味を付ける和菓子・麩の焼き(ふのやき)に始まるといわれる。
いまでいうクレープのようなお菓子と思われ。
だからお好み焼きには500年ほどの伝統があるのだ。
…という文章をときどき見かけるのだが、日本でお好み焼きが広がったのは戦後だし、麩の焼きとの直接のつながりもない。
だからこれは日本の「コナモン料理」の起源で、お好み焼きの「遠いルーツ」といったところだ。
現在のお好み焼きの始まりとしてよくいわれるのは、大正時~昭和初期にかけて東京で流行した「どんどん焼き」や、それを元に関西で生まれたという「一銭洋食」だ。
ねぎ、キャベツ、ひき肉、すじ肉、天かすなどを具材にし、ウスターソースを塗るのが洋食っぽくて、1枚1銭で売られていたから「一銭洋食」と呼ばれるようになった。
このどんどん焼きや一銭洋食が現在のお好み焼きになる。
客が自由に自分の好みで焼いて作ったから、この名前になったという。
戦後、アメリカから支援物資として大量の小麦粉が届けられたことが大きなきっかとなって、お好み焼きは全国へ広がっていった。
キャベツを用いる混ぜ焼き式の「お好み焼き」は近畿地方を中心に戦後急速に浸透し、全国各地で洋食焼き・どんどん焼きからお好み焼きへと料理の名称と調理法が更新されていった。
画像:Naocchi
お好み焼きについては静岡出身のワイ、広島旅行で衝撃的な話を聞いたことがアリ。
広島の県民性かその人の性格なのか知らんけど、お好み焼き屋のカウンター席に座っていたら、隣にきた50代のおっさんからフレンドリーに話しかけられた。
広島ではバースデーケーキの代わりに、お好み焼きにロウソクを立てて祝う風習があるという話をフンフンと聞いていると、広島のお好み焼き屋には「〇〇ちゃん」といった女性の名前を店名しているところが多いという。
その理由は戦後直後にさかのぼる。
当時は小麦粉の配給があって、広島ではそれを使い、自宅の一部を改装してお好み焼きを売る女性がたくさんいた。
そういう人は戦争で息子を亡くした母親で、もう会うことのできない子どもをしのんで店の名前にした。
そんな話は初耳だったから、しばらく箸を持つ手が止まってしまった。
でもこれ以降、そんな話を耳にしたことがない。
調べてみると、広島のお好み焼き屋には確かに女性が切り盛りしていて、「〇〇ちゃん」という店名はよくあるが、どうやらそれは亡くした子どもとは関係ないようだ。
戦後、生きていくために多くの女性が支援物資の小麦粉を元に、自宅でをお好み焼き屋を始めたのはホント。
工場の多い広島では鉄板を手に入れることは、わりと簡単だったらしい。
そして、昔ながらの店には「〇〇ちゃん」という名前が多いもの事実。
でも、それは夫を戦争で亡くした女性が自分の名前を店名にしたことが多く、一般財団法人「お好み焼きアカデミー」によるとそれにはこんな目的もあったらしい。
店の屋号に「〇〇ちゃん」という名前が多いのは、戦地から帰ってきた方がみつけやすいから、という理由もあったそうです。
こういう願いがかなう可能性は、本当に少なかったはず。
これとは別に、「昭和38年1月豪雪」で食べていけなくなった地方の農家が広島市へ移住して、主婦がお好み焼き屋を始めた例も多い。
戦争や原爆で夫を亡くした女性が大きな悲しみと小さな希望を抱えながら、一度は廃墟同然となった広島で、鉄板などの道具を用意してお好み焼きを作り続けた。
その過程で麺や豚肉などが加えられて、いまの広島のソウルフードであるお好み焼きが出来上がった。
> 店の屋号に「〇〇ちゃん」という名前が多いのは、戦地から帰ってきた方がみつけやすいから、という理由もあったそうです。
それ、広島のお好み焼きに限った話ではないですよね。
私の大伯母もそういう店をやってました。