前回の記事で、幕末にペリーがやってきて国難が訪れたとき、「学問吟味」で選ばれた幕府の役人が活躍したって内容を書いた。
ならばついでに、大田南畝って人のことを知っていきましょうか。
寛政の改革で学問吟味が始まってから約60年後、とつじょ4隻のペリー艦隊が現れて幕末の日本は大騒ぎとなる。
このとき詠まれた狂歌が学校でならったコレですわ。
「泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 たつた四杯で 夜も眠れず」
上喜撰とはそういう緑茶のこと。
四杯のお茶を飲んだだけで、(カフェインのせいで)夜も眠れなくなってしまった。
それほどのパニック状態になった幕府を皮肉っている。
ではここでクエスチョン。
江戸の三大改革といえば、享保の改革と天保の改革と寛政の改革なんだが、では江戸の狂歌三大家は一体だれ?
答えは唐衣橘洲(からころもきっしゅう)と朱楽菅江(あけらかんこう)、それと上の大田南畝(おおたなんぽ)。
うん、全員そろって読みづらい。
歴史教科書で、寛政の改革を皮肉るこの狂歌を見た人も多いのでは?
「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶといひて 夜もねられず」
(幕府(松平定信)が蚊のようにブンブン(文武)とうるさいから、夜もろくに眠れねー。)
この狂歌をつくったのが大田南畝といわれる。
同じく寛政の改革をやり玉にあげたこの狂歌も有名だ。
「白河の 清きに魚の すみかねて もとの濁りの 田沼こひしき」
(超厳格ないまの白河(松平定信)の時代より、ワイロOKとか汚いこともあったけど、田沼意次の時代はよかったー。)
この狂歌をつくったのも、大田南畝といわれる。
「~といわれる」というのは、どっちも正式には「詠み人知らず」だから。
実際には大田南畝がつくった作品だけど、この2つの狂歌は政府批判をしているから、本人が否定したと考えてられている。
そんなユーモアと骨のある大田南畝が46歳のとき(1792年)、学問吟味が始まると聞いてこの試験を受けてみた。
するとなんと首席で合格。
そして幕府から重要な仕事をまかされるという、マンガのような展開が待っていた。
世間では狂歌の有名人であった南畝は出世できないと揶揄していたが、及第の2年後の寛政8年(1796年)には、支配勘定に任用された。
南畝の答案集「甲寅廷試稿(こういんていしこう)」は、その後の受験生の参考書になる。
当時の日本では最高レベルに優秀な頭脳の持ち主で、シャレのセンスも持ち合わせていた大田南畝が詠んだのがこの狂歌。
「世の中は 色と酒とが 敵(かたき)なり どうぞ敵に めぐりあいたい」
それがこれが彼の辞世の歌という。
「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」
大田南畝はなかなかの逸材。
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