いまから約2000年前、日本なら弥生時代の真っ最中、古代ローマでは紀元50年のきょう2月25日、皇帝クラウディウスがネロを養子にした。
いまの世界で有名な「暴君ハバネロ」じゃなくて、「暴君ネロ」が誕生する下地は整った。
その数年後に皇帝クラウディウスが死ぬと、ネロは16~17歳でローマ皇帝となる。
世界史でならう哲学者セネカの指導を受けて、若き皇帝ネロは熱心に政治をおこない、国民をよろこばせて「ネロって、ひょっとしたら名君?」と思われるほどの善政をしていた。
でも、しだいに彼の運命とアタマが狂い始めていく。
あれこれ干渉してくる母親のアグリッピナに、「はあ?うっせえ うっせえ うっせぇわ!」というレベルを超えて、どうしても我慢できなくなったネロは彼女の殺害を決意し、兵を送り込む。
アグリッピナは剣(槍かも)を抜いた兵士らを前に、自分の腹を指をさして「ここを刺すがいい!ネロはここから生まれてきたのだから」と言い放って殺されたという。
「親殺し」だけでも重罪なのに、ネロと母親は肉体関係にあったというおぞましい話も伝わっている。
ネロの母親、アグリッピナの兄が第3代皇帝カリグラでこの人も暴君として有名だ。
母を殺害した後、物思いにふけるネロ
その後、ポッパエア・サビナと再婚したネロは、前妻のオクタウィアに自殺を命じた。
さらに、ネロを退位させて別の人物を皇帝にする計画にセネカが加わっていると聞くと、ネロは自分を導いた恩人に自殺を強要する。
タキトゥスの「年代記」によるとセネカは最期にこう言った。
「ネロの残忍な性格であれば、弟を殺し、母を殺し、妻を自殺に追い込めば、あとは師を殺害する以外に何も残っていない。」
ちなみに、妻オクタウィアに自殺させた日が62年6月9日で、ネロが自殺した日はちょうどその8年後、68年6月9日だった。
師のセネカと語らうネロ(左)
ヨーロッパ世界で、初めてキリスト教の大迫害を行ったのはネロと言われる。
完全に鎮火するまで一週間かかったという大火災(ローマ大火)が64年に起こると、ネロは率先して鎮火を指示し、被災者を収容する場所を用意して食料を手配した。
にもかかわらず、「燃えさかるローマの街を宮殿から眺めながら、ネロはたて琴をひいて歌を歌っていた」とか、「新しい都を造るためにネロが放火した」といったウワサが流れてむしろ悪評が広がってしまう。
そこでネロは、「オレじゃない!あの火災の原因はキリスト教徒にある!」と責任をなすりつけるの巻。
すると、それまでローマではあまり知られていなかったキリスト教に注目が集まり、ネロは彼らを捕まえては、生きたまま猛獣に食べさせたりして処刑した。
この当時のローマ市民にとって、こうした「残酷ショー」は娯楽の一つだったから、この弾圧でネロへの支持が集まったと思われる。
でも、キリスト教徒がこれより嫌がったのは火刑だろう。
キリスト教には、肉体を燃やされると天国へは行けないと考えがあったから、ネロは信者の願いや魂さえ抹殺したことになる。
初代ローマ教皇のペトロもネロの迫害で殉教した。
ローマでの弾圧から逃れようとアッピア街道を歩いていると、向こうから師のイエスがやって来る。
「主よ、どこへいかれるのですか?」と問うペトロに、「あなたが私の民を見捨てるのなら、私はもう一度十字架にかけられるためにローマへ」とイエスが答える。
それを聞いて、ペトロは殉教を覚悟してローマへ戻ったという説がある。
ペテロが葬られた場所に建てられたのが、カトリック教会の総本山でローマ法王のいるサン・ピエトロ大聖堂だ。
ペテロや多くの信者を残酷に殺害して、「大規模なキリスト教弾圧を初めて行った皇帝」というイメージが後の西洋社会に定着したことで、ネロは「暴君」の代名詞となった。
ネロによって火刑に処されるキリスト教徒
肉親や恩師を殺したり自殺させたネロも、対立していた元老院から「国家の敵」に認定されると、自殺に追い込まれて30歳でこの世を去る。
そのあとこの暴君の死体は、怒り狂った市民によって原形をとどめないほど破壊された。と思ったら、多くのローマ市民がネロの墓を訪れて花や供物をささげたという。
近年、公式記録にある暴君としてのネロは実は虚像や誇張で、「実はけっこういいヤツだったのでは?」という評価が高まって、名誉回復運動が進んでいる。
この時代の落書きにネロの名前や似顔絵が多いのは、ネロに対する庶民の人気の高さを示しているという。
ネロが死んから約30年後、ネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスのいわゆる「五賢帝」の黄金時代が始まった。
このときの政策の多くは、ネロが築いたものが基盤になったという。
トラヤヌスはネロの始め5年間は「まれに見る善政」でだったと絶賛した。
ネロの死後、歴史を記した元老院側の人間やキリスト教徒が、ネロを実際以上に悪く書いた可能性は十分ある。
「暴君って言われてるけど、ひょっとしたら名君では?」説については、日経ナショナル ジオグラフィックの記事にくわしく書いてある。(2014/8/31)
暴君ネロは市民に愛される政治家だった
歴史の汚名を着せられたとしても、2000年ほど前に死んだ「暴君ネロ」に抗弁権はない。
でも安心してほしい、そんなネロさんに朗報がある。
「ネロの残忍な性格であれば、弟を殺し、母を殺し、妻を自殺に追い込めば、あとは師を殺害する以外に何も残っていない」と恩師に言われたネロが東洋の島国で、その魂を受け継ぐ美少女キャラとして生まれ変わり、かなりの人気者になっているしい。
いまの日本で「ネロ」と言えばほぼアニメキャラ
> ネロの死後、歴史を記した元老院側の人間やキリスト教徒が、ネロを実際以上に悪く書いた可能性は十分ある。
まあ、おそらくそれが真実でしょうね。あの時代のローマ帝国で、本当に(若い頃から)暴君だったら、国民や元老院の支持が得られず、皇帝になれたはずがない。
この辺の歴史に対する欧米人の伝統的な考え方(元老院が腐敗し、暴君と化した皇帝が分離主義者の蛮族と手を組んで、大帝国を分裂させた)は、映画SWのEP1, 2, 3 にもよく描かれています。