フランスの3月10日 絶対王政→革命・処刑→外人部隊の誕生

 

きのう3月10日は、日本では1945年に東京大空襲が起きたとても重要な日(東京都平和の日)。
視点を西へむけて、フランスを見てみると、3月10日はその後の歴史を変えるこんな出来事があった日だ。

1661年:国を動かしてきた宰相のマザランが死んで、国王ルイ14世が自ら政治を行う(親政)と宣言した。
1793年:フランス革命のさなか、政治犯を裁くための革命裁判所がパリに設置された。
1831年:フランス国王ルイ・フィリップが詔書に署名して、フランス外人部隊が誕生した。

20世紀のドイツではドイツ共和国の誕生、ナチスのミュンヘン一揆、ベルリンの壁の崩壊などの重大事件が11月9日に起きていてることから、その日は「運命の日」と呼ばれている。

ドイツの「運命の日」:ホロコーストへつながる、水晶の夜 

フランスの3月10日は、ドイツでいう「運命の日」のようなもの(たぶん)。
上の3つは一本の線でつながっているから、これからそれを見てフランスの歴史を学びましょー。

 

まず、マザランという人は超優秀な政治家だ。
三十年戦争やフランス・スペイン戦争でフランスの領土を拡大して、国内ではフロンドの乱を鎮圧し、各地の貴族を弱体化させることで王権を強化した。
これによって下地ができたことで、ルイ14世はブルボン王朝の最盛期を築き、「ルイ大王」とか「太陽王」と呼ばれるほどの勢力を誇っていた。
ヴェルサイユ宮殿はルイ14世が建てたもので、彼の時代のフランスを象徴している。

 

日本の天皇は古代からこの国の統治者で、武士に政治権力を奪われたことはあっても、一度も倒されたことはない。(もちろんいまは象徴)
その正統性は、天皇は神である天照大神の子孫という日本神話による。
ヨーロッパの場合、王は神から国を統治する権利をもらっているから、それは誰も侵害することはできないという「王権神授説」って論理があって、それが正統性になっていた。
王と神は直接的につながっている。
人民を支配する権利は神から授かったのだから、王は神に対してだけ責任を負えばよく、人民はもちろんローマ教皇や神聖ローマ皇帝の言うことを聞く必要もない。
王は神だけに拘束され(=地上では無敵)、自由に振る舞うことができるというのが王権神授説の考え方だ。

その代表的な論者にフランスのボシュエがいて、彼の「王に逆らうことは、神への冒とくである」という話を聞いたルイ14世は「それな!」と膝をたたいたはず。
自分こそフランス国家そのものだ! という「朕は国家なり」の言葉は(創作説もある)、ルイ14世の本質や17世紀フランスの絶対王政をよく表している。

 

ルイ14世

 

でも残念ながら、次のルイ15世がポンコツだった。
七年戦争ではイギリスに負けてアメリカ大陸での権益を失ったことで、フランスを弱体化させる原因をつくった。
ほかにもポーランド継承戦争やオーストリア継承戦争などにも参加して、戦争の負担から国家財政も傾けやがります。
ルイ15世は私生活も派手で豪華だった。
多くの愛人を持ち、「最愛王」と呼ばれるほど好奇心旺盛な下半身を持っていて、そのお相手の1人、ポンパドゥール夫人はとくに有名だ。
「国庫はわたしのサイフよ」みたいな勢いで金をドンドン使って、あちこちに邸宅をバンバン建てさせた。
いまのフランスの大統領官邸、エリゼ宮はポンパドゥール夫人の邸宅のひとつ。
政治にあまり関心のなかったルイ15世に代わって、彼女はお気に入りの人物を外務大臣(戦争大臣も兼ねていた)にさせるなどして、フランスの政治をベッドの上で動かしていた。
そんなポンパドゥール夫人の有名な言葉は「私の時代が来た」。

 

これは七年戦争の参加国

青:イギリス、プロイセン、ポルトガルとその同盟国
緑:フランス、スペイン、オーストリア、ロシア、スウェーデンとその同盟国

 

画像:Gabagool

 

ルイ14世紀が絶対王政の時代をおう歌し、15世やポンパドゥール夫人などが国のカネを自由に使って、戦争や建築とか好き勝手なことをやっていたら、国民の生活は貧しく、苦しくなるしかない。
国民からは悲鳴の声が上がり、やがてそんな元気もなくなって社会には不満や怒りが満ちていく。
フランスだけにフツフツと。

そしてついに1789年7月14日、フランス革命がぼっ発して国王ルイ16世が処刑される。
無能な15世の責任を彼が取らされたようで、かわいそうだがこれも歴史の運命だ。
こうしてマゼランやルイ14世のときに黄金期を迎えたフランス絶対王政は、市民がギロチンでルイ16世の首を切断したことで終了となる。
そして国内にいる革命に反対する人たち(反革命容疑者)を裁くため、革命裁判所が1793年3月10日、パリで設置された。
ルイ16世の妻マリーアントワネットはそこで有罪判決を受けて、夫と同じくギロチンでこの世を去る。
この裁判所では上訴も抗告もできなかったから、一度出た判決がそのまま最終決定となる。
3万人以上の人が処刑されたという革命裁判所は「恐怖政治」を象徴するものとなった。

 

反対派を排除・殺害して国内では革命が絶対的に支持された一方、イギリスやオーストリアなど周囲の国は、市民が王政を倒す革命の広がりに恐怖した。
それでフランスに干渉してきて、革命戦争とナポレオン戦争が始まる。
このときフランス国民軍が他国の寄せ集めの傭兵隊を撃破し、圧倒的な強さでねじふせて各国に革命政府を認めさせて、フランスは広大な領土を手に入れた。

祖国愛を持つ国民が兵士となって戦ったことで、傭兵の集まりを打ち破ることができた。が、当然その代償として、フランスは多くの若い男性を失ってしまった。
その後、1830年にアルジェリア征服戦争が始まると、フランス国民軍にたくさんの死傷者が出たため、国民の非難を怖れた政府は新しいカタチの軍隊をつくることにした。
それは、外国人をフランスの軍人として受け入れて、仏軍の士官がその外国人兵士を指揮するというもの。
1831年3月10日、国王ルイ・フィリップが設立詔書に署名してフランス外人部隊が誕生した。
これは正規軍と同じ地位を与えられたから、完全にフランス軍の一部となっている。

 

ということで、おわかりいただけただろうか。
3月10日は、

1661年にルイ14世が親政を宣言し、絶対王政の政治を行う。
それ以降、国民の不満や反感が募っていき、ついに爆発してフランス革命が勃発し、1793年に政治犯を裁くための革命裁判所が設置された。
革命が原因となって欧州諸国と戦ったら青年が減少し、1831年に外人部隊が創設された。

といったフランスの歴史で重要なことが起きた日で、それぞれつながっているのだ。

 

 

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。