きょう4月28日は「象の日」だ。
将軍・徳川吉宗の希望で、1729年にベトナムからゾウが日本へやって来て、4月28日に京都御所で中御門天皇に“拝謁”したことにちなんで「象の日」となった。
それから約200年後の1908年4月28日、多くの日本人移民と夢と期待を乗せた笠戸丸がブラジルへ向けて神戸港を出港した。
こうして始まったブラジル移民の悪戦苦闘、試行錯誤の歴史についてはこの記事を。
これは安倍首相がウルグアイを訪れたときの様子。
彼らの思いはブラジルの日本人や日系人ときっと同じだ。
日本人が地球の反対側まで移動して、新しい生活を始めて30年ほどたった1941年に太平洋戦争がぼっ発する。
はじめは中立の立場だったブラジルも、アメリカの圧力を受けるとそう言い続けることもできなくなって、1942年に連合国として参戦することを決め日本との国交を断絶した。
*ブラジルが日本に宣戦布告したのは、終戦直前の1945年の6月。
このときの日本人にとっては日本語新聞が廃刊にされて、戦争の情報が日本語で入ってこなくなったことが痛かった。
ポルトガル語を理解できない人は多かったし、ブラジルで発行されるポルトガル語紙の情報は「連合国のデマだ!」と思い込んで信用しない人もいた。
遠い異国の地で日本人は、何が真実かまったく分からない状態に置かれてしまう。
戦争末期、日本軍の劣勢が明らかになっても、その情報を「連合軍のプロパガンダ」と否定して、日本の勝利を信じ続ける。
ブラジルにいたら本土空襲で焼け野原となった都市や、物が手に入らず困窮した国民のようすも分からないから仕方なし。
それでも現実はやってくる。
1945年8月14日、日本の降伏(ポツダム宣言受諾)を伝える放送はブラジルでも流れる。
こればかりは否定できないから、「日本敗戦」の一報に、ブラジルにいた日本人はみなぼう然とするばかりだったという。
でも、時間の経過とともに現実を受け入れて、人々は新しい生活に向かって進んでいったのなら、あの悲劇は起こらなかった。
終戦後、敗戦の知らせはデマで、実は日本は勝ったのだ! という主張が出てきて、現実を受け入れたくない人たちがこのデタラメを支持するようになる。
日本国民へ降伏を伝える玉音放送が聞き取りにくかったこともあって、これを「勝利宣言」とカン違いする人もいたらしい。
そしてこうした人たちは「勝ち組」、日本の敗北を受け入れた日本人は「負け組」と呼ばれるようになる。
*この場合はもちろん「負け組」が正しい。
ブラジルの日本人は「勝ち組」と「負け組」に二分され、両グループの対立は深まっていき、「勝ち組」の中には、「日本は負けたのだ。受け入れないと現実を!」と言う人たちを“裏切者”や“国賊”と考える人たちも現れた。
そして終戦の翌年1946年3月、「負け組」の中心人物が暗殺される事件が発生すると、これが惨劇の始まりとなって、サンパウロ州の各地で「勝ち組」が「負け組」を襲うテロが相次いで起こる。
日本では全国民が戦後復興のために動き出していたのに、ブラジルでは願望で真実を否定したり、フェイクニュースを事実と誤認したりして、日本人どうしの殺し合いが始まり、20人以上が亡くなった。
正しいのは敗戦を受け入れた「負け組」だから、ブラジル当局は彼らの味方となる。
それで「勝ち組」の日本人を拘束したブラジル当局は、無理やり「日本は負けた」と言わせたり、昭和天皇の写真を踏ませるといった“拷問”を行う。
こんなことで、日本人が日本人を襲う暴力事件は鎮静化していく。
それでも、1951年に日本・ブラジルの国交が回復された後も、日本の敗北を否定し、勝ったと思い込む「勝ち組」の人たちがいて「負け組」を攻撃していた。
1951(昭和26)年といえば、日本がアメリカと安全保障条約を結んだり、田中茂樹がボストンマラソンで日本人として初めて優勝した年で、もう戦争は歴史教科書に書かれているころだ。
ブラジルでの「勝ち組」「負け組」による日本人の争いは、1950年代に完全終了となる。
1908年4月28日、笠戸丸に乗っていた日本人はまだ誰もこれを知らなかった。
W杯マラカナンの悲劇・ブラジル代表ユニが黄色の”悲しい理由”
> この場合はもちろん「負け組」が正しい。
??? ここでちょっと引っ掛かりました。
この手の文章表現は外国人にとって非常に解釈が難しいのですよ。それゆえ誤解をも招きやすい。
正確に表現するならば、
『この場合はもちろん「負け組」の主張が事実に合っている。』
とでも言うべきかな?
日本語では「正しい/正しくない」「良い/悪い」の意味がとても幅が広いのです。英語に翻訳するには、10種類くらいの英単語の中から適切なものをいちいち選択しなくちゃならない。日本人同士の日本語のコミュニケーションでも間違うことが多いです。ましてや外国人と話す場合は特に要注意。
その原因の一つは、たぶん、日本人と外国人とでの宗教観の違いにあります。彼らにとって「正しい」とは、「神が認めた」という意味にとても近い。だから「Good」は「God」に似ているのです。
あるいは、be good at ~ というイディオムからも、日本語に比べて英語が「分析的表現」に長けていることが分かります。この場合の「at ~」は、日本語では「~が(上手)」ですよね。その辺の感覚が違うんだな。