日本企業で働くために来日して、もう日本に3年ほど住んでいる韓国人の知人がいる。
ゴミ出しのルールや現金での買い物とか日本の生活にはすっかり慣れて、もう驚くこともなくなったという彼でも、「在日コリアン」という言葉にはいまでも違和感を感じるという。
「韓国人と北朝鮮の人は違いますよ。もちろん同じ民族ですけど、いまは政治的にも経済的にも、まったく違う価値観をもつ国に住む別々の人間です。なんで『在日韓国人』と『在日朝鮮人』じゃダメなんですかね?ニュースを見るたびにいつも不思議に思います。」
韓国人も朝鮮人も英語では「コリアン」になって、日本に住む彼らをまとめて「在日コリアン」とよぶことが多い。
でも韓国と北朝鮮は、国としては1950年に戦争で戦ったなど対立関係にあるから、“コリアン”とひとまとめにするのではなくて、在日韓国人(朝鮮人)と呼ぶべきだ、という声はいまでも双方の立場である。
きょう5月30日は、1952年(昭和27年)に「大梶南(おおかじみなみ)事件」が起きた日だ。
宮城県仙台市の大梶南地区には多くの在日韓国・朝鮮人が多く住んでいて、互いの地区をへだてる道路を「38度線」と呼んで対立を深めていた。
それでこの日、ついに抗争がぼっ発し、仙台市警察が地区全体を包囲する大騒動になる。
同じ人間同士でも海外にいると、争いが生まれることは日本人の間でもあった。
こんな感じに、日本にいる韓国人と朝鮮人の間では戦後から対立がある。
それと同時に、そういう争いにウンザリして互いの友好関係を願う人も多くいて、最近は国籍を抜きにした「在日コリアン」の呼称が使われることが一般的になった。
このへんは政治的にとても敏感な問題で、この呼称に対してもいろんな見方がある。
韓国で生まれ育って日本へやってきた知人は、こうした戦後から現在までの複雑な事情とは一切無縁だから、
「韓国人なら“在日韓国人”でいいじゃないか。コリアンって英語は変ですよ。いまでも慣れません。」
と不満そうに言う。
彼からすると、日本で生まれて韓国語も話せない在日韓国人は、韓国生まれの自分たちとは“別の人間”と感じる。
流れている血は同じでも、在日韓国人には徴兵の義務がないとか社会的にはまったく違うから、どこかに越えられない一線がある。
日本に来てから在日韓国人と知り合って、仲良くなって一緒にご飯を食べたり遊びに行ったりするけど、やっぱり彼らは海外の同胞であって、自分たち韓国人とは違う。
これでさらに北朝鮮の人を含めた「在日コリアン」という単語を使われると、心の距離がさらに広がってしまう。
といっても、日本で生まれ育った韓国・朝鮮人には特有の事情があるから、これはもう仕方がない。
>『在日韓国人』と『在日朝鮮人』
きたが
> “コリアン”とひとまとめにするのではなくて、在日韓国人(朝鮮人)と呼ぶべきだ、という声はいまでもそ双方の立場でもある。
??? 「いまでもその双方の立場で(そのような声が)ある」という意味ですか?
> 「韓国人なら“在日韓国人”でいいじゃないか。コリアンって英語は変ですよ。いまでも慣れません。」と不満そうに言う。
> 彼からすると、日本で生まれて韓国語も話せない在日韓国人は、韓国生まれの自分たちとは“別の人間”と感じる。
コリアンという英語を選択したのは、確か彼ら在日の人々自身の選択であったように思うのですが。同じ民族であっても「自分たちとは別の人間」と感じるのにも関わらず、なぜ「自分たちと同じ民族名を名乗るべきだ」と考えるのでしょうかね? お節介というか、すごく傲慢で尊大な考え方であると感じます。
>「いまでもその双方の立場で(そのような声が)ある」という意味ですか?
そうです。
ミスでした。ご指摘ありがとうございます。