ささいなトラブルが、気がついたらトンでもない騒ぎになっていた、なんてことはよくある。
庭に入り込んだ豚を農夫が殺したら、戦争寸前にまでなったことが実際にあった。
この記事を書いた日、小さなことが大ごとになる事例が東京で発生。
列車の中で乗客が「せき払い」をすると、それがきっかけでほかの乗客と口論になる。
まあ今はコロナでみんな敏感になってるから…。
で、どんな口論だったかわからんけど、誰かが非常ボタンが押して列車が緊急停止した。
JR山手線外回りが45分もストップした結果、列車3本が最大で47分遅れて約2000人に影響が出たという。
これにあきれるネット民。
・大馬鹿2人
・カルシウム摂れよ
・わりとよくあるトラブルだが被害が凄い
・他の客の迷惑だからお前が席払いしろ!
・争いは同じレベルでしか発生しない
せき払い1つで2000人の足を止めるとか、列車内のちょっとしたトラブルで、千人単位の人を巻き込む”事件”に発展するコトは過去にもあった。
自分をウツワ以上に大きく見せたりカッコつけたり、エラそうな態度をとることをネットスラングで「イキる」と言う。
電車をとめた原因にもこの「イキり」があると思われ。
きのうは6月17日は1933年(昭和8年)に、おそらく「イキって」しまい、後には引けなくなって日本史に残る出来事、「ゴーストップ事件」がおきた日だ。
この日の午前11時40分ごろ大阪市の交差点で、22歳の陸軍一等兵が赤信号を無視して徒歩で道路を横断した。
交通整理をしていた25歳の巡査がこれを見つけ、メガホンで注意して一等兵を派出所へ連行。
そこで一等兵が「軍人は憲兵には従うが、警察官の命令に服する義務はない!」と言い出して、派出所内で巡査と殴り合いを始める。
お互い血気盛んな20代だから、「イキった」部分があったのだろう。
結果、一等兵が全治3週間、巡査が全治1週間のケガを負う。
「争いは同じレベルでしか発生しない」の原則でこれで終わればよかったのに、日本史に残る事件はここから始まった。
このあと「公衆の面前で軍服着用の帝国軍人を侮辱したのは断じて許せん!」と憲兵隊が警察署に怒鳴り込んでくる。
事情聴取をしても、巡査と一等兵では言い分が違っていてこの件が片付かない。
陸軍ではこの話が憲兵司令官、陸軍省と上層部へ伝わっていき、
第4師団参謀長の井関大佐が、
「この事件は一兵士と一巡査の事件ではなく、皇軍の威信にかかわる重大な問題である」
と公式声明をだして警察に謝罪を要求する。
対して粟屋大阪府警察部長はこう言い返した。
「軍隊が陛下の軍隊なら、警察官も陛下の警察官である。陳謝の必要はない」
「落としどころ」がなくなって、この後おこなわれた第4師団長中将と大阪府知事の会見も決裂。
もう完全に一等兵と巡査の争いではなくって、このとき2人はどんな思いでコトの成り行きを見ていたのか。
ここまでは大阪での出来事で、東京ではこの問題が軍部と内務省(警察を所管)との対立に発展していた。
荒木貞夫陸軍大臣は「陸軍の名誉にかけ、大阪府警察部を謝らせる」と怒り(またはイキり)、内務大臣と内務省警保局長(いまの警察庁長官)は軍部には一歩も譲らないし、謝罪などありえない、その兵士を逮捕起訴すべきだという意見で一致した。
新聞はこの陸軍と警察の正面衝突を大きく報じて、この騒ぎは世間の関心を集め、大阪の寄席では漫才の題材になったほど。
こうなった以上、陸軍も警察も引くに引けなくなる。
昭和の「絶対に負けられない戦い」がそこにはあった。
この一件を担当していた警察署長は過労で倒れ入院し、10日後に急死する。
事件の目撃者だった高田善兵衛は憲兵と警察から、自分たちに有利な証言をするよう強く求められ、そのすさまじい圧力で自殺に追い込まれた。
そしてついに、あの方が動く。
事態を憂慮した昭和天皇の特命により、寺内中将の友人であった白根竹介兵庫県知事が調停に乗り出した。天皇が心配していることを知った陸軍は恐懼し、事件発生から5ヶ月目にして急速に和解が成立した。
陸軍も警察(内務省)もそれぞれ「皇軍」、「陛下の警察官」が権威の由来になっているから、「陛下がご心配されている」と聞けばこの件は終わる。
でもこれで司法では「軍に警察権力は及ばない」という考えが定着したし、警察も軍には手を出さなくなって、軍人のおこす問題は憲兵隊にまかせるようにした。
1922年からの世界的な軍縮の流れで、日本で軍は少しずつ「イラナイ子」になっていったけど、1931年の満州事変で存在感や重要性が一気に高まった。
警察相手に一歩も譲歩できなかった理由にコレがあるはず。
33年の「ゴーストップ事件」によって軍はアンタッチャブルな組織になり、大きな力を得たことが「軍部の暴走」を招く一因になる。
コトの始まりは一等兵の信号無視だ。
握手して和解する警察署長(右)と歩兵第8連隊長
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