【日台友好】“台湾紅茶の祖”として感謝される新井 耕吉郎

 

「台湾」という文字は、日本では「とも」と読む。
そう言っていいほど、熱くて固い友情で結ばれているのが日本と台湾だ。
突然の事件で安倍元首相が命を奪われると、台湾の蔡総統はすぐ「私たちは、安倍元首相が世界の自由と民主主義に果たされた偉大な功績を決して忘れません。」とメッセージを出してくれて、安倍さんが台湾に示した友情に感謝するため、台湾の全ての政府機関に半旗を掲げるよう指示した。

民間レベルでもいろんな形で、感謝のメッセージを出してくれるのが台湾というところ。

 

ということで今回は日本と台湾の友好関係にフォーカスして、台湾人に感謝されている日本人を紹介しよう。
日本には日清戦争に勝利した1895年から、太平洋戦争で負ける1945年まで台湾を統治していた歴史がある。
その期間の詳細はここでチェック。

地方自治を拡大するための総督府評議会の設置、日台共学制度及び共婚法の公布、笞刑の撤廃、日本語学習の整備などその同化を促進し、台湾人への差別を減少させるための政策を実現した。また後藤の政策を改め、鉄道や水利事業などへの積極的な関与を行い、同化政策は具体的に推進されていった。

日本統治時代の台湾

 

だからいまの台湾社会には建物や食べ物など、いろんなところに日本の影響が残されている。
そんな日本の面影や一般的な観光情報を発信している台湾人の「Hsu Hsu」さんが、このまえ「日台の絆」として新井耕吉郎の像をネットにアップ。

 

 

群馬出身の農業技師・新井 耕吉郎(1904年~1947年)は、台湾で紅茶の研究や普及に全力を尽くしたことで知られている。
台湾に渡ったあと、新井は各地の茶畑の土壌や気候を調査して、南部にある日月潭(にちげつたん)という湖のあたりが紅茶の栽培に適していることを発見し、ここが一大産地になると確信する。
そしてそこで紅茶栽培をはじめて、試行錯誤をへて、艱難辛苦を乗り越えて独自の「台湾紅茶」を作りだす。
そんな新井は終戦後も台湾に残ることを決め、その後マラリアで亡くなった。
彼の功績や思いは台湾の人たちが引き継いで上のような銅像をつくり、「台湾紅茶の祖」と呼んで敬意と感謝の気持ちを示している。
上の Hsu Hsu さんは新井耕吉郎を「台湾日月潭紅茶の父」と表現した。

もちろん日本の台湾統治には闇歴史もあったが、新井のように台湾の発展に尽くした日本人はたくさんいて、いまでも台湾の人たちはその功績を忘れていないし、頭を下げて感謝の気持ちをあらわす。
そしてそんな事情を知って、日本人が台湾人に感謝する。
こうした感謝と感謝の相互交換の上に、いまの日台関係が成り立っている。

 

新井 耕吉郎

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。