きょう8月7日は「ヤナな日」ということなんで、今回は日本とイギリスの不幸な歴史について書いていこうと思う。
1485年のこの日、イギリスに「粟粒熱(ぞくりゅうねつ)」という見えない悪魔が上陸した。
14~15世紀にかけておこなわれた百年戦争で、イギリスはフランスに敗北する。
するとその後イギリス国内で、敗戦の責任を押し付け合ったことに権力争いが加わって、世界史でも屈指のカッコよさを誇る名前の「バラ戦争(Wars of the Roses)」がぼっ発。
1455年~85年まで30年も続いたこの内乱は、ヘンリー7世がヨーク家をぶち倒してテューダー朝を開いて終結した。
このバラ戦争の最終局面で、フランスに逃げていたヘンリーが1485年8月7日にイギリスに舞い戻ってきた。
彼がフランス人の傭兵を率いて上陸したあと、イギリスでは粟粒熱(ぞくりゅうねつ)が発生し、ヘンリーがロンドンに到着するとこの病気は大流行して、その後2カ月ほどで数千人の死者を出す。
症状が発生すると、数時間で死亡することもあったこの怖ろしい病気の原因はいまも分かっていない。
ただ前後の状況から、フランスからイギリスへ伝えられたとみてまず間違いない。
当時のイギリス人はこの謎の病気を、神がヘンリー7世の支持者を罰するためにもたらしたと信じたという。
*English people started to believe it was sent by God to punish supporters of Henry VII.(Sweating sickness)
免疫がないと、外部からやってきた新しい病気が大流行して、多くの人が犠牲になることは世界史では何度も起きている。
なかでも大航海時代はムゴイ。
15世紀末にコロンブスがアメリカ大陸に到達すると、たくさんのヨーロッパ人がこの新大陸へ来るようになり、天然痘、麻疹、ペスト、チフス、マラリアといった怖ろしい病気を運んできた。
そのせいで、免疫のなかったアメリカ大陸の人たちはバタバタと倒れていく。
コロンブスが来る前、約900万人だったペルーの先住民の人口は1620年には60万人と壊滅状態になる。
数の上では圧倒的に少なかったヨーロッパ人が、広大なアメリカ大陸を支配できた大きな理由に「伝染病を持ち込んだから」ということがある。
天然痘による“あばた”のある幕末の武士
日本でも8世紀の奈良時代に「天平の疫病大流行」と呼ばれる天然痘の流行が発生し、空前絶後の被害を出す。
このときの死者については当時の日本の人口の25~35%にあたる、100万–150万人が亡くなったという推計もある。
現代に当てはめると約4375万人が消えたことになるから、もう日本が死亡するレベル。
この天然痘の大流行は、朝鮮半島(新羅)からもたらされたと考えられている。
天然痘は中国から朝鮮半島に伝わり、日本へ上陸した後、江戸時代には本州から北海道へもたらされた。
誰かが意図的にウイルスをバラまいたわけではないから、これはそういう歴史があったと言うしかない。
天平の疫病大流行では、絶大な権力をもって日本の政治を動かしていた「藤原四兄弟」(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)や、ほかの上位貴族も次々と死んで朝廷は大混乱となる。
日本人には、流行病を「神の罰」と考えたイギリス人のようなキリスト教的な発想はない。
代わりに「怨霊信仰」があったから、このとき人びとは、藤原氏が自殺に追い込んだ長屋王の「祟り」と信じたという。(長屋王の変)
昔の日本人は病気の疱瘡(ほうそう=天然痘)を擬神化し、疫病神の一種である「疱瘡神」をつくり出したから、その神の怒りと言うことはできるかもしれない。
天然痘の流行(天平の疫病大流行)、地震、飢饉といった天災に、九州では藤原広嗣の乱が起こるといった人災も加わり、国は乱れて人びとの心も不安や恐怖につつまれたから、それを一掃して国を安定させるために、聖武天皇は東大寺に大仏を建立することを思い立つ。
天然痘の流行が終息して数年後、農民に土地の私有を認める「墾田永年私財法」が出されたことにも、疫病でダメージを受けた農民にやる気を出させて、農業の生産性を高めることが目的にあった。
疱瘡神を追い払う源 為朝(ためとも)
赤い少女が疱瘡神
明治時代でもこの疫病神を信じる人がいて「目撃談」が新聞に掲載された。
日本とイギリスで起きた上の流行病の発生はエピデミックで、いまのコロナのように複数の国で同時に起こるとパンデミックになる。
科学の発達した21世紀のいま、流行病の原因を「神の怒り」とか「祟り」と考える人はゼロではないだろうけど、ほぼいなくなった。
でも、コロナだけでもどんどん新種が生まれているし、人類と感染症の戦いはまだまだ終わらない。
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