むかし友人の中国人と、(正確に言うと、そう思っていたらとつぜん音信不通になった中国人)と話をしていたら、彼がこのまえ奈良へ行ったと言う。
奈良なら大仏を見て、鹿にセンベイをあげたら手を噛まれたに違いないと思ったら、彼は東大寺にも奈良公園にも、春日大社にも法隆寺にも薬師寺に行かなかった。
それなら一体どこへ行ったのか。
その中国人は関空から帰国して、静岡へ戻る途中にちょっとだけ観光できる余裕があって、京都には行ったことがあるから、その時は奈良の唐招提寺をチョイス。
初めて行く奈良で、時間的に1か所しか回れないとしたら、ここを選ぶ日本人や外国人はきっと激レアだ。
その理由に興味があって彼に聞くと、名前には中国の古代王朝の「唐」があるし、そこはご先祖が建てた寺だからと言う。
鑑真
奈良時代の日本では、仏教僧には労働、納税、兵役が免除されていた。
だから国の手続きを無視して、勝手に僧侶になる私度僧が続出する。
でもそうなると、収入が入らなくなって国家財政がピンチになるし、仏教僧のレベルも低下するから国としては困ったことになる。
そんなことで朝廷が僧を任命する制度を整える必要性が出てきて、日本人の僧が中国へ渡り、伝戒師(僧侶に位を与える人)になれそうな立派なお坊さんを探しまくる。
それで、高僧との名声の高かった鑑真がそのリクエストを引き受けてくれ、日本へ行くこととなる。
いまでは飛行機で映画を見てるうちに到着するけど、この当時、中国から日本への移動は命がけだ。
6回目のチャレンジで、やっと鑑真は船で日本へ行くことができた。
*密告されて渡航できなくなったこともある。
苦労に苦労を重ねて、鑑真は両目を失明したという。
ちなみに日本の歴史で初めて「おきなわ」の呼称が確認されたのは、このときの鑑真の伝記『唐大和上東征伝』に出てくる「阿児奈波(おきなは、あこなは)」による。
754年に来日し、超VIPとして迎えられた鑑真は平城京で聖武上皇などから歓待を受ける。
その後、彼は精力的に活動してくれて、聖武上皇や光明皇后をはじめ多くの日本人に授戒をおこなう。
それと同時に、正式な僧を任命した。
日本仏教に消えることの無い貢献をした鑑真は、759年のきょう8月29日に唐律招提(いまの唐招提寺)を建立し、そこで日本人に仏教を伝えて、母国に戻ることなく76歳でこの世を去る。
ちなみに、きょうは708年に日本初の銅銭「和同開珎」が発行された日らしい。
友人の中国人(たぶん)には偉大なご先祖の墓参りの意味があったから、大仏や鹿よりも唐招提寺を優先した。
トリップアドバイザーで「唐招提寺」の中国人のレビューを見ても評価は高い。
*日本語訳はアプリにほぼ一任。
・可以看到壮观的佛像与鉴真大师的墓,对佛教有兴趣的人一定要拜访此地!
(壮大な仏像や観世流師範の墓も見ることができるので、仏教に興味がある人はぜひ訪れてみてください。)
・中国には唐代の建物がほとんど残っていないため、唐代の建築を研究する人の多くが唐招提寺を訪れます。
・中国唐代の様式を取り入れたこの建物は、日本の国宝に指定されている。
・シルクロードの最東端に位置する奈良の静かな町で、美しい寺社がよく保存されている。
韓国のソウルを漢字で書けない理由:漢城?京都?首爾(首尔)?
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