日清戦争(1894~95年)で日本が勝利すると、福沢諭吉は涙を流してよろこんだ。
日清戦争など官民一体の勝利、愉快とも有難いとも言いようがない。命あらばこそコンナことを見聞きするのだ、先に死んだ同志の朋友が不幸だ、アア見せてやりたいと、毎度私は泣きました
「福翁自伝 (福沢諭吉)」
ヨーロッパ人が描いた日清戦争の風刺画
近代で初めて経験した対外戦争に勝ったことで、日本は「国民国家」に生まれ変わり、清から得た賠償金を元に経済や軍備を充実させて、2度目の対外戦争・日露戦争でも勝利することとなる。
一方、敗戦国となった清はすべてが暗転。
国内の要地を欧州列強の租借地にされて、義和団の乱でも負けて半植民地化が進んでいく。
*ちなみに義和団の乱について、清と諸外国との間で北京議定書が調印されたのは1901年のきょう9月7日だ。
そして最後は国民に見限られ、辛亥革命が起こって清朝は滅亡した。
この明暗を分けたのは、近代化に成功していたかどうかだ。
日本では日清戦争の8年前、1886年のきょう明治天皇と日本政府の間で機務六条(きむろくじょう)が結ばれた。
これによって総理大臣の要請がない限り、明治天皇は閣議には加わらないことなどがきまる。
天皇はみずから政治を行う親政を放棄し、憲法が上位にあることを認めて、自身の権力は憲法によって規制される立憲君主の立場を受け入れた。
同時代の中国にいた最高実力者・西太后(せいたいこう:1835年 – 1908年)はまさにこの真逆。
自分を至高の存在と考える西太后にとって、憲法が自分に規制をかける状態なんて絶対に認められない。
この時代には3歳で即位した光緒帝がいたけど、母親の姉である西太后には逆らえず、光緒帝はあやつり人形も同然だった。
帝国主義の19世紀後半、力のない国は欧米列強の支配下に置かれるのは必然。
それがイヤなら、国を近代化して経済・軍事力を高めて、侵略されない国にレベルアップするしかない。
明治天皇のいた日本は一足先にそれに成功すると、明治維新を参考に、清もヨーロッパの優れた科学技術を取り入れて国力を強化しようとした。(洋務運動)
が、その改革運動は失敗に終わる。
ヨーロッパの立憲君主制とほぼ同じ政治体制を実現した日本に対して、西太后は立憲君主を否定し、清朝を頂点とした政治体制を維持することに固執し洋務運動をつぶしてしまう。
そして西太后は国のカネを食い散らかした。
頤和園という巨大な庭のために、日清戦争の総費用の約3倍の国費をつかう。
自分の60歳の誕生日を祝うイベントのために、日清戦争の総費用の2倍以上もつかった。
このために北洋艦隊の予算を削り、国を完全に私物化していたのだから、日清戦争での負けフラグはもう何本も立っていたのだ。
自分に意見する人間なんて認めないし、許さない。
1896年には西太后の寵愛する寇連材という宦官が、政権の返還・光緒帝の親政を見守る事・円明園の修改築凍結・海軍経費の頤和園への流用即時停止などを意見したが、西太后はこれを刑部へ送り処刑している。
「機務六条」なんて言い出したら、拷問を受けたうえで処刑される予感。
自分より憲法や国民を優先した明治天皇と、国を犠牲にして私利私欲を爆発させた西太后。
君主の質が銀河系レベルで違っていたことが、日本と中国の近代化と戦争の勝敗を分ける大きな要因となったのだ。
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