ヨーロッパ世界にとってのオスマン帝国 恐怖→ざこ化→消滅

 

南北朝を統一した足利義満が京都に金閣寺を建てたころ(1397年)、ヨーロッパでは「文明の決戦」がおこなわれた。
1396年のきょう9月25日、ブルガリアのニコポリスでオスマン帝国(トルコ)とヨーロッパ連合軍が運命をかけた戦いに挑む。
オスマン皇帝バヤズィト1世とハンガリー王ジギスムントをトップとするこの戦い、中身を見ると、オスマン帝国(とセルビア公国)に対してヨーロッパはこんな布陣だ。

ハンガリー王国、神聖ローマ帝国、フランス王国、ポーランド王国、イングランド王国、スコットランド王国、スイス原初同盟、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、ワラキア公国、第二次ブルガリア帝国、マルタ騎士団などなど。

『テレ東音楽祭』もビックリな超豪華ラインナップ。
ヨーロッパ諸国が結集してオスマン帝国を一方的にぶったたく構図で、もはやただのイジメかと思いきや、このニコポリスの戦いでオスマン帝国は圧勝してしまう。
ヨーロッパ連合軍が有象無象だったというよりは、この時のオスマン帝国の強さがチート級だったのだ。
イスラム勢力に大敗北したキリスト教徒の兵士は見るも無残。

戦場から逃げた者で生き残った者はほとんどいなかった。ドナウ川のボートに泳いで行きつこうとした者はあまりに多く、乗った者の重さで船が沈んだ。川を泳いで渡ろうとした者の多くは溺死した。

ニコニコポリスの戦い

ブルガリアを流れるドナウ河の近くにニコポリスがある。

 

束になって向かっていっても蹴散らされ、ヨーロッパ人は「もうだめぽ…」(だめっぽい)となって、オスマン帝国に対して戦意を失ってしまう。
一方、ニコポリスの戦いでキリスト教連合軍を撃破したバヤズィト1世は、「圧倒的ではないか、我が軍は!」と叫んかもしれないないが、とりあえずイスラム世界で君主を意味する「スルタン」の称号を手に入れた。
さらに強大となったオスマン帝国は、ヨーロッパ世界にとってはまさに脅威のカタマリ。

もはや敵なし。
これからオスマン帝国の無双状態が始まるかと思われた時、東から攻めてきたティムールとのアンカラの戦い(1402年)で敗北し、バヤズィト1世はティムールの捕虜となって、オスマン帝国は勢いを無くなす。
ヨーロッパはツイてた。

 

 

でも、オスマン帝国はまた復活。
1453年にはコンスタンティノープルを陥落して東ヨーロッパ帝国を滅亡させ、ヨーロッパの人たちに大きな衝撃を与えた。

その後、10万以上の大軍で津波のような勢いでやってきたオスマン帝国軍は、1529年に神聖ローマ皇帝のいるウィーンを包囲する。(第一次ウィーン包囲
これは結局うまくいかず、オスマン帝国は撤退したが、「心臓」をつかまれたヨーロッパ諸国には底知れない恐怖が残された。
ただ、神聖ローマ皇帝(ハプスブルク家)と対立関係にあったフランスは、オスマン帝国の味方をしたから、全ヨーロッパが一致団結していたというワケでもない。

オスマン帝国が無双状態にあったのはこの時、16世紀前半で、1571年にレパントの海戦でヨーロッパ連合軍に負けたあたりから、帝国は坂道を下っていく。
そして1683年に再びウィーンを包囲し、結局は大惨敗したオスマン帝国は完全にボスキャラとしてのオーラを無くす。
その後、エジプトに独立されるなど国力が衰退し、雑魚キャラ化していく。

【ウィーン包囲】ヨーロッパ、トルコという“恐怖”を克服する

露土戦争(1877~78年)でロシアに敗れてかなりの国土を奪われたころ、オスマン帝国はヨーロッパから「瀕死の病人」と言われるようになった。
オスマン帝国はいつ死んでも(滅亡)おかしくないという、危篤状態だったと思われる。
最後は第一次世界大戦に敗戦したことがトドメになって、ムスタファ=ケマルによるトルコ革命が起きて、1922年にオスマン帝国はこの世から消えた。
ニコポリスの戦いでヨーロッパ連合軍に大勝利を収め、ウィーンを包囲した無敵の帝国は、国民からダメ出しをくらって内側から崩壊した。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。